レザー・アスラン。その名前を知っている人は、宗教学、キリスト教学に興味を持っている人だろう。カリフォルニア大学リバーサイド校教授のアスラン氏の経歴は、特異性に満ちている。1972年にイランの首都テヘランで生まれ、イラン革命時に家族と共に米国へ亡命する。イスラム教徒であった幼少期を経て、キリスト教に改宗。当時は保守的な福音主義的キリスト教を受け入れていたが、やがて「キリスト教」という特定の宗教だけでなく、「宗教学」という大きな視点で、神と向き合う人間の心情、集団として紡ぎ出す宗教的文化について考察を深めていく。
ハーバード大学神学大学院を経て、最終的にカリフォルニア大学サンタバーバラ校で宗教社会学の博士号を取得する。日本でも好評を博した著書『仮想戦争 イスラーム・イスラエル・アメリカの原理主義』『イエス・キリストは実在したのか?』などが、全世界で評価されている。
そんなアスラン氏の新刊が、本書『人類はなぜ<神>を生み出したのか?』である。ことわっておくが、いずれの著作も原題は邦題とは大きく異なる。特に本書は、大いに意訳されている。原題は、“God: A Human History”(神:人間の歴史)。つまり本書は、特定の宗教における神を扱ったものではなく、また各宗教の教義を比べるような内容でもない。もっと根源的な問い――どうして人間は神という存在を認め、これに帰依する感情を抱くようになったのか――を扱っている。
だから本書は、キリスト教界でかんばしく論争される「福音主義かリベラルか」という二項対立的な構図でひもとかれるべきではなく、むしろフォーカスはあくまでも「ホモ・サピエンス」、つまり人間に当てられているのである。
序章では、キリスト教的概念「神のかたち(イマゴ・デイ)」を巧みに用いながら、どうやって人間は「神」という概念を認知することができるのか、という問いを提示する。そして第1部から第3部までを通して、人間の進化とそれに伴う生活習慣、文化の発展と推移を丹念に描き出すこととなる。
心憎い演出は、神に遭遇する主人公(たち)を、アダムとイブに置き換えている点である。これは聖書に登場する人物名である。しかしそう命名された彼らは、決して聖書的な物語構造を持っていない。人が数千年、時には数万年の時間を経る中で、「人となる」過程が描きだされ、それに伴って祭儀的な習慣や神認識の形式が変化していく様も導き出されていくこととなる。
第3部に至って、初めてキリスト教的な「神概念」の考察が加えられている。ここが本書最大のうまみである。直接手に取って確かめてもらいたい。正直、第1部は退屈だった。本書は2千円以上もするので、正直「選び間違えたか?」と思ってしまった。しかし第2部の「人格化された〈神〉」の「第4章 狩猟民から農耕民へ」の項で、今をときめくイスラエルの歴史家ユバル・ノア・ハラリ氏の考え方を参照するあたりから、一気に加速するのを感じられる。
そして本書最大の特徴として挙げておかなければならないのは、本文に対する「脚注(原注)」の割合である。邦訳書である本書は全体で335ページ。そしていわゆる「本文」に当たる部分は210ページ。参考文献や訳者の言葉、池上彰氏の解説などを除いても、85ページはアスラン氏の脚注で占められているのである。しかも、脚注一つ一つが長い。ある項目は、3~4ページにわたって解説が加えられている。
本文数ページを読むのに、脚注も同じページ数を読まなければ先に進めない、というところもある。つまり本書は、一般読者を対象にしながらも、その背後には専門家たちによる研究の積み重ねがあり、その膨大な学術的裏付けによって支えられていることを示しているのである。
言うなれば、これは人類のルーツをめぐる、人間の英知を結集した一冊ということである。だからすらすらと読み進めることはできなかった。途中で読み返したり、脚注に飛んだり、本を開いたまま、頭の中であれこれを思い巡らせたり・・・。そんな知的ゲームを楽しむことが好きな人にとっては、忘れられない一冊になるであろう。
では、この本がキリスト者へ提供できるものとは何だろうか。
第一に、良い意味で聖書とキリスト教世界を相対化する視点を持つことができるということである。本書には、認知科学、考古学、そして歴史学という各分野の第一線で活躍している学者たちが登場する。すなわち、現代という視点から宗教を分析すると、こういう結果、こんな概念と見なすことができる、という「経過報告」を得るには最適である。
つまり、キリスト者が信じ受け入れている「キリスト教的世界観」を、他者がどのように見ているか、どんなところに疑問を抱き、どこを否定しているか、をつぶさに知ることができる。こうした客観的な視点を持つことは、福音宣教には必要なことである。
第二に、アカデミズムと科学的思考というものが、実は多くの場合「推論」や「推測」の上に成り立っているということを痛感させられるということである。これは決して「だから聖書をそのまま受け止めることの方が優れている」と言いたいわけではない。
本書では「神」という概念を扱っているが、結局のところ、その神をどう受け止めていくかという「人間論」に帰着する。つまり、私たち人間を100パーセント理解することなどできないということを、逆説的に示す証左になっているのである。
どれほど科学技術が進歩し、人のDNAまで完全に解読されたとしても、「人」そのものの在り方や存在意義について、私たちはどこまでいっても「推論」「推測」の域を出ることはできない。それほど人間とは深淵である。そう思わされるのに役立つ一冊である。
■ レザー・アスラン著、白須英子訳『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』(文藝春秋、2020年2月)
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