確かに、クリスチャントゥデイでの経験は、編集会議そのものがそうであるように、私にとって初めての経験です。しかし同時に、高校生の時、思いを越えた経過で、キリストの福音を聞き、聖書を自分なりに読み続け、主イエスご自身に従う道を歩み続けたそのままを、クリスチャントゥデイで継続し、編集会議で求め続けてきたと自覚しています。
小岩栄光キリスト教会(当時・小岩アッセンブリー教会)の高校生会で、また母校・開成高校の聖書研究会で歩み始めた、聖書のみにすがりつつ自立し、協調していく合議制の在り方・主のしもべ仲間の営みを、その後、神学教育を受け続けた全過程で求め続けてきたと理解します。また、埼玉県寄居の教会にはじまって、東京西多摩の青梅、沖縄首里の群れいずれにおいても、基本的には同じ道を歩んできたと考えるのです。
教会の説教壇で話さないことは、神学校の教壇でも話さない。牧師と神学校教師の2本立てではなく、すべては聖書に立つ説教と実践してきたつもりです。関東においても、沖縄においても、いずれの時も、いずれの場所においても。
ですから、クリスチャントゥデイの編集会議の出発と継続にあたって、エステル記4章14節の「この時のため」は、そのまま私なりに受けてきた教育と経験について当てはまると受け止めているのです。オーバーに言えば、これまでの経験すべては「この時のため」だったと心得ています。
編集会議は100回を迎えた恵みで終わりではありません。新たな思いで、一方的な恵みに対して恵みを無駄にするのではなく、創意工夫を尽くして応答したいのです。
たとえば、今年4月から始めた編集会議の議事録の公表があります。足りない点を認めつつ、最も必要不可欠な御言葉の受け止め方についての報告がなされていると自負します。
さらに、編集会議に、相互信頼と敬意を払う方々の中から陪席してくださる方が起こされるようにとの願いは、すでに数名の方において現実となっています。時に応じ、人に応じて多様な人材が、あたかも読者の代表のように編集会議に参加することを祈り、夢見ています。
この編集会議の議事録公表や陪席者の出席は、使徒信条「聖なる公同の教会を信ず」の実践的告白です。
クリスチャントゥデイは、本来の主の業がすべてそうであるように、組織と経済のみによって営まれているのではない。私たち個人については、お金のために働いているのではない。
小なりとは言え、祈りを通して与えられる志を、志を与えてくださるお方自身が、私たちのような者を通して実現してくださる。ですから、私たちも恵みへの応答として、本来あるべき組織と経済の仕組みを求め続けていくのです。主を恐れる以外、何者も恐れない、たじろがない、それ故にどんな小さな人も、どんな小さなことも侮らない自立させられた者同士が、開かれたリンクで結び合わされる信仰共同体。そのような営みの進展を、クリスチャントゥデイの今後として、ますます求め続けたいのです。
そのために、編集会議はそれなりの役割を委ねられていると理解します。死に至るまで、読みに読み、書きに書く営みを継続させていただきたいのです。クリスチャントゥデイの読者各自と共に。記者も読者の一人です。それと同じように、読者の中から記事やコラムを書いてくださる方が、ここでもあそこでも起こされるように祈ります。感謝。(終わり)
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