長崎市の市立図書館で3日、長崎純心大教授の山内清海氏が「永井隆博士の思想を語る−神の摂理−」と題して、カトリック信徒であり長崎で自ら被爆しつつも被爆者治療に尽力した永井隆博士(1908‐51年)の摂理論について講演した。長崎新聞が報じた。
永井博士は「長崎の鐘」などの著書を残し、核兵器使用の非道を訴える一方、カトリック信徒の立場で「浦上に原爆が落ちたのは神の摂理」と発言し、それが核兵器容認論とも受け取られることもあったため、一部の被爆者からは批判もある。今回の講演会は、長崎大学付属病院の医師らが、「博士の思想が正しく伝わっていない」として実行委員会を組織し開催に至ったもので約140人が参加した。
同紙によれば、山内氏は摂理論について、「永井が特に強調した思想的背景には、原爆投下を『天罰』と噂し、それに迷っていた信者に勇気を与えたかったから。そうした人々への警鐘であり、神への信仰を説くためだった」と指摘した上で、「永井は原爆投下を神の業ではなく、『人間の愚かな業』と嘆いている。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の『戦争は人間の仕業です』との言葉と矛盾しない」「摂理論は原爆の苦しみの中で絶望するのではなく、もう一回頑張ろうという未来志向的で、浦上の再建と世界平和構築の再出発点だった」と述べた。
永井博士は戦前、長崎医科大(現長崎大医学部)で助手として放射線物理療法の研究に取り組み、カトリック信徒であった妻・緑の影響などから26歳で受洗。カトリック信徒となった後は、無料診断・無料奉仕活動なども行った。
1945年8月9日、長崎への原爆投下で自らも被爆し重症を負ったが、直ちに救護班を組織し被爆者の救護に当たった。幾度も昏睡状態に陥るという身体であったが、長崎医科大に同年「原子爆弾救護報告書」を提出。翌年には同大教授に就任した。その後、大学を休職し療養に専念するようになるが、ローマ教皇の特使が見舞いに訪れ、長崎名誉市民の称号を受けるなどした。
永井博士は被爆後、「長崎の鐘」(1946年)、「ロザリオの鎖」(1948年)、「平和塔」(1979年)など没後に発行されたものなどを含め、10以上の作品を執筆。長崎市や、同氏が幼少青年時代を過ごした島根県雲南市には記念館が建てられている。