昨日は少々風邪気味だったので、大事をとって外出せず、風邪薬を飲んで休んでいた。血液中の白血球が少なく、肝機能も良くないので、風邪とて侮れない。こじらすとなかなか治りにくいので、初期のうちに治すに限ると思っている。
しかし一日中家の中にいて、ふと康子以外誰にも会わなかったことに気が付き、あぜんとした。当然のことであるのに、いつの間にか世間が狭くなってしまったなあと思いもした。
時に、新聞紙上に老人の孤独死という小さな記事を見つけるが、他人事ではない。自分もそれに類似する年齢になってきたのだと思った。常日頃思っている交わりの大切さをも思い知った。
よくよく考えてみると、以前にも書いたように、その人の交わりというものは、会う人の数によって決められるものではない。いくら多くの人と毎日会っていようとも、心にもないことを話題に日々明け暮れていたのでは、孤独でいるよりはましかもしれないが、あまり意味がないかもしれない。利益のみを求めて奔走し、多くの人と会っていたり、多くの人をただ利用するだけで、真心がなかったりするなら、これもあまり意味のないことかもしれない。
「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです」(エペソ4:25)
たとえ人に会う機会は減っても、その時その時を大切に、真実をもって接するならば、また、時々しか会わなくとも、その人のために本当に神様の祝福を願っているならば、そしてイエス・キリストを通して、神と人との交わりをするなら、きっと祝福される交わりとなると思う。
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