予定のセミナーが終わり、明日は食糧を届けにいくとのこと。お金も二〇〇ドルほどあったので、食料やパン、ビスケットやキャンデーを買った。行き先はすぐ近くだと思ったのに、朝三時に出発する。アメリカ在住の台湾のクリスチャンが献品したという、立派な新車のパジェロだった。またしても五人乗りのところへ九人が乗った。食料を積むスペースもない。真紅の闇の中を出発。キタレに着いたのが六時。ケニアの夜明けだ。真っ赤な太陽が空や木々を染めて昇ってきた。不思議な感動に包まれ、自動車の窮屈さも、匂いも気にならなくなった。キタレでできたてのパンを買い足し、自動車も走っていない未舗装の道を、ひたすらに四〇〇キロぐらい走り続けた。その間、追い越した自動車はゼロ、出会ったのは三台だけだった。もっとも近年は、もっと多くの自動車を追い抜いたり、出会ったりする。道も良くなっている。
キタレはポコト族の土地で、食料も豊富にある。道路沿いにはトウモロコシ畑が広がり、年に何回も収穫できる恵まれた土地だ。そこから小さな川に架かる橋を渡ると、トルカナ族の土地へ入る。
一九八五年に大旱魃(かんばつ)が襲うまで、トルカナは牧畜で有名だった。トルカナ湖ではテラピアやナイルフィッシュが豊かに取れ、金持ちは飛行機をチャーターしてやってきた。
ところが旱魃はトルカナに大打撃を与え、多い時で一日に五十万頭もの家畜が死んだ。そして旱魃が長引くにつれ、食糧も底をついた。誇り高きトルカナの人々は、石をかじってでも飢えをしのいだが、子どもたちは餓死し、三十歳の母親でさえ、やせ衰えて七十歳の老婆に見えるほどになっていった。世界のジャーナリストたちは、その悲惨さを報道するために押しかけ、恰好の被写体としてシャッターを切り、カメラを回した。トルカナの人々はそれまで文明を知らず、ほとんど裸体で暮らしていた。女性たちが上半身を覆うことはなく、子どもも裸で平気に走り回っていた。そこへ襲った飢餓。それよりも獰猛な報道陣。ジャーナリストたちはカメラを向ける条件として、世界に知らせて、必ず食糧を持って戻ってくると約束した。しかし、帰ってきた報道陣はほとんどいなかった。人々はその日以来カメラを憎んだ。
私は日本の有名な出版社が出版した、トルカナの飢餓を写した写真集を手に入れた。その社に電話してみたら、その写真集を覚えている者すらなかった。出版してわずか四年後のことだった。
トルカナの県庁所在地ロドワーに、車は砂ぼこりを上げて停まった。まさしくひどい所だった。それに暑い暑い。じっとしているだけで汗が流れ、風が吹くと砂がこびりついてザラザラした。
レストランとは名ばかりの食堂で昼食をとることになったが、何と注文して二時間も待たされた。ハエがまといつき、物売りや物乞いの子どもたちがひっきりなしにやってきては、わめきたてる。早く食糧を配って帰りたいというのが本音だった。やっとの思いで、まずい食事を押し込んだ。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)