ユダヤ人も異邦人もすべての人々が救われることが神様の計画です。日本のリバイバルは通過点であって、世界中にリバイバルをもたらしていくことと同時に、スタートであったエルサレムの人々、ユダヤ人に対する伝道も準備していかなければなりません。
ユダヤ人に対する伝道の準備ということで、旧約聖書から新約聖書を見ていきたいと思います。
「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」(エペソ2章12~16節)
神様の計画では、プロテスタント信徒もカトリック、ギリシャ正教の信徒も、イスラム教徒であっても、イエス様を信じクリスチャンになって、すべて救われていきます。
使徒の働き8章で旧約聖書のイザヤ書を読んでいた宦官にピリポが解き明かしをして救いに導きました。旧約聖書の中に新約の内容が隠されています。
「見よ。その日が来る。―主の御告げ-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」(エレミヤ書31章31~34節)
エレミヤ書31章は、新約の内容であって、32節に書かれてある「エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約」とは、モーセの律法であり、それが旧約聖書の契約です。旧約聖書の契約は石版に文字として書かれましたが、新約聖書の契約は「彼らの心にこれを書きしるす」(33節)とあります。
旧約聖書では罪を購うために動物のいけにえを捧げていましたが、その度に人々は罪を思い出し苦しんでいました。
しかし「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」(34節)とあります。
詩篇には新約の内容が多く書かれています。またヨブ記は神の義を言っています。旧約聖書の中に、新約聖書の内容が書かれています。旧約聖書と新約聖書の大きな違いは、旧約には神の義が人間の中にはありませんでした。しかし新約では、神の義が救われた人間の中にあると書いてあります。イエス様の犠牲が無かった旧約の時代の人たちは、罪の中で苦しんでいました。罪の赦しの無かった心の状態が、ヘブル書10章に書かれてあります。罪を思い出して苦しんでいたのです。
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」(ヘブル10章1~4節)
しかしエレミヤ書31章34節では、「罪を二度と思い出さない」と語られています。こういうことを良く知って、ユダヤ人に伝道する準備をしていきましょう。
いつも罪が思い出されるのが旧約に生きた人々の心の状態です。では新約の時代に生きる人々の心の状態はどうでしょうか。詩篇2篇から説いていきたいと思います。
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』『わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする』』それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」(詩篇2編1~12節)
詩篇2篇1、2節を使徒の働き4章25、26節と見比べてみますと、今読んだ箇所がここに出ています。(新改訳foot noteに注目)、油注がれた者(詩篇2篇2節)はメシア=キリストのことを言っています。
「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ』」(使徒の働き4章25、26節)
この意味を使徒の働きの著者であるルカは4章27、28節でどのように解釈したでしょうか。
「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました」
この聖句の解き明かしとしては、イエス様が十字架に架かられる際に、ポンテオ・ピラトと地の権力者たちが手を組んでいたということです。(続く)
■ 旧約から新約を解く:(1)(2)(3)(4)(5)(6)
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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