戦後、原爆で親が犠牲となり孤児となってしまった「原爆孤児」を、米国の市民が養親となって支援した活動(精神養子運動)があった。当時小、中学生だった孤児たちと養親との間で交わされた手紙約360通が、両者の仲介のために活動していた谷本清牧師(当時日本基督教団・広島流川教会主任牧師、1909〜86)の自宅で発見。広島平和記念資料館(広島市中区)で25日から、その一部が初公開されている。
手紙は、被爆者への海外からの支援を紹介する展示(10月31日まで)の一部として紹介されている。パネル写真のほか、被爆後間もない8月末に届けられたブドウ糖注射液など、当時の貴重な資料が約150点展示されている。原爆孤児と養親との間で交わされた手紙は8点展示されており、原爆によって肉親を失った子ども達の様子がうかがえる。来館者からは、「1つの原爆で多くの人が犠牲になることがわかった」「谷本さんについて、もっと詳しく知りたい」などの声があった。
谷本師は、教会復興に尽力していた46年、ピュリッツァ賞作家ジョン・ハーシーの取材で自らの被爆体験を世界中に紹介され、ハーシーの著書「ヒロシマ」となって大きな反響を呼んだ。その後、米国メソジスト教会の招請により渡米。約15ヶ月間にわたり、合計31州256都市で講演を行い、ヒロシマの惨状と平和を訴えた。さらに、1950年にヒロシマ・ピース・センターを設立し、精神養子運動や原爆乙女の渡米治療に取り組んだ。晩年には、平和文化センターの理事長などを歴任。死後、故人としては異例であるが、米エモリー大学から名誉神学博士の称号を授与された。また、1987年には谷本清平和賞が創設され、その受賞者には俳優の吉永小百合氏や漫画『はだしのゲン』の作者である中沢啓治氏が名を連ねている。
広島流川教会は1887年、砂本貞吉が中心となって、関西学院大学の創立者である米国人宣教師ウォルター・ラッセル・ラバンスを招聘して創立。当時は、現在の日本基督教団・神戸栄光教会と共に、米国南メソジスト監督教会の瀬戸内海沿岸の広域伝道拠点の1つであった。また、教会堂の階上では女生徒を集めて女学校が開かれ、広島女学院の母体となった。
問い合せは、広島平和記念資料館(電話:082・241・4004)まで。