力が欲しい。自由が欲しい。もっと大胆に、もっとおおらかに、良い知らせを語りたい。何度も願った。やがて聖霊のバプテスマという体験があることを教えられた。イエス・キリストが天に帰られる時、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。…聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:5,8)と約束されたのである。
高校生の時に水のバプテスマを受けたので、自分では聖霊のバプテスマもいっしょに受けたと思っていたが、どうもペンテコステ教会ではそのようには考えていないことが分かってきた。聖霊のバプテスマを受けると、異言を語るという証拠が伴うという。それで祈りの時、あのわけの分からないことばをしゃべっているのだということも、だんだん理解できるようになった。しかし私自身は、異言を語る必要はないと思っていた。聖霊を受けると力が与えられることはすばらしいが、異言は困る、語りたくないというのが率直な思いだったのだ。それにいくら異言を語っていても、礼拝が終わって、人の悪口や否定的なことば、つまらない冗談や軽口、だじゃれを言うくらいだったら意味がないと、否定的に考えていた。
六月に入って、神学生だけの祈り会が開かれた時のことである。司会者の先輩が、「今夜は聖霊のバプテスマを受けていない兄弟のために祈りましょう。受けていない人は前に出なさい」と勧めた。
異言を語る聖霊のバプテスマの体験がない神学生は二人いたが、もう一人はその場にいなかった。しかたなく、しぶしぶ前に進み出た。「この兄弟のために今、手を置いて祈りましょう」との声と同時に、みんなが私を囲んで祈ってくれた。だが当の私自身は、黙っていればあきらめてやめるだろうと考えてじっとしていた。そして心の中では「神よ、早くこの時間を終わらせてください」と祈っていた。
その時、不思議な気持ちになった。理性では否定しているのに、お腹の底で何かが弾けるような、わき上がってくるような気持ちになったのだ。何もかも任せてゆだねてよいような感動に満たされ、思わず口を開いた。今まで語ったことのないことばが、くちびるからあふれた。熱い感動とともに、聖霊が全存在を包み込み、腹の底から生ける水の川が流れ出るようだった。そして異言だけではなく、預言のことばも自由に語っていた。その時預言したことは、今となってはほとんど忘却の彼方であるが、それでもおおかた実現しているように思う。
聖霊は現実のお方であり、パラクレイトス(助け主)である。真理の御霊、神の霊、キリストの御霊、自由の御霊。聖霊によって神の愛は注がれている。そして信じる者は聖霊によって喜び、聖霊によって自由とされ、聖霊によって新たにされていく。人知をはるかに超えた聖霊の世界を飛翔する恵みを体験できるのは、クリスチャン生涯の宝である。
翌朝、お手洗いでクート院長と出会った。「義之兄弟、聖霊を受けただね」とのことばに、「どうして分かるのですか?」と尋ねると、「顔を見たら分かるだよ」と言われた。聖霊が来る時、目に入るものがみな輝き、力が与えられ、人生が輝くようになることを体験した。聖書が開かれ、祈りも自由になった。人を赦し、受け入れることが容易になった。イエス・キリストをあかしすることも大胆になった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。