渡邊昌彦氏(以下渡邊氏)は1965年、シオン・キリスト教団蒲田教会で伝道師に任命され翌年から石岡地方にて家庭集会を2カ所で開始した。その翌年1967年に渡邊純子氏と結婚し、純子氏も伝道師に任命された。
1968年6月から信徒宅で礼拝、牧師宅で祈祷会を始め、一カ月後の7月からは石岡市民会館を借りて礼拝を捧げるようになった。9月から和裁所、婚礼貸し衣装のアルバイトを開始し、教会建設基金100万円を目標に積立を開始し、工務店でアルバイトを継続した。
1969年に渡邊氏が牧師に任命され、第一回洗礼式が大洗海岸で行われ、6名が受洗した。1971年には集会所および牧師住居が石岡市内に移転し、翌年から純子氏が石岡市役所に保険師として就職、1973年に教団からの支援230万円を得て総工費1,000万円で土地51坪、会堂45坪2階建ての会堂が完成された。
1985年には「シオン・キリスト教会」として宗教法人格を取得し、1989年には純子氏も牧師に任命された。1999年には純子氏が石岡市役所を退職、医師会病院に勤務、渡邊氏は教団理事長に就任、2001年にはすべての借入金が完済し、現在借入金一切なしの教会を維持している。現在シオン・キリスト教会は渡邊氏が主任牧師、純子氏が高齢者のケアと宣教を手掛ける心のオアシスリトリート講師を務めている。
シオン・キリスト教会のこれまでの洗礼者数は100名に及んでいる。家族関係も3人の息子とその嫁に恵まれ3つの家庭で合計7人の孫がおり、4代目のクリスチャン・ホームとなっている。
~今は収穫の時期~
渡邊氏はこれまでの自給自活伝道について、「社会で働きながら関わりをもってきたからこそ地域における協力がありました、無借金での活動が進められていることは、幸いなことです。家族関係も、息子3人、お嫁さん3人で3つの家庭ができました。孫が7人おり、4人の子どもたちが洗礼を受けました」と証しし、現在の時について「収穫の時期を迎えていると思います。神様が与えてくださったものを残さず刈り取ることが出来るようにしたいと思います」とヨシュア記13章1を引用して老人になったヨシュアに自身を照らし合わせて今後の福音伝道の豊富を語った。
またこれまでの自給自活伝道が神に守られたことについて、ピリピ書2章13~14節「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべえてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」、詩篇16篇5節「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます」を引用して証しした。
渡邊氏の妻で同じく牧師の渡邊純子氏(以下純子氏)は、自給自活伝道のこれまでを振り返り、「堅信して伝道者になったわけですから、その当時の聖書理解からしますと、(世の中で)働きながら伝道するということは果たして正しいのだろうか?と思いましたが、それでも働くことを決心して社会に出ました。迷いの背景には、使徒の働き18章5節に書かれてある『シラスとテモテがマケドニアから下ってくると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した』という箇所にありました。いつも牧師は教会からの支援によって生きるのが当然、当たり前という考え方が、福音派と言われている人々の中では通常の考え方でした」と述べた。
純子氏が1972年に石岡市役所保険師として就職した際も、倍率の高い市役所での就職に対して不思議な導きがあったという。当時石岡市役所の保険師が倒れ、ちょうど代わりとなる人材が求められていたとき、市民会館の礼拝に石岡市役所の総務部長が訪れ、純子氏を採用するに至ったという。純子氏は「神様の導きだったと思います。会堂建築費の返済が終わった時点で、先ほどの使徒の働き18章のみことばが再び頭をよぎり、宣教に専念すべきかどうかが私の迷いとなり、ずっと祈りました。そのとき、5日~6日くらいずっと同じ夢を続けて見ました。私が市役所の仕事を辞めて後悔しているという内容の夢でした。この意味を考えたとき、ヘブル書10章38節の『義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない』というみことばによって、『私はなお働き続けるべきだ』という確信が私の内に現れました」と述べた。
~神様の御言葉を伝えるという使命感をもって職場へ~
純子氏は社会で働きながら伝道活動をすることについて、「証しのために社会に出て行くべきだと思って働いています。伝道者が働くということについての後ろめたい気持ちはふっきれました。神様の御言葉と夢による教えを伝えるという使命感をもって社会に出て仕事をするようになっていくことができました。自給自活の働きの中に加えていただいたことにより、より深く聖書を学ぶ機会が与えられて、働くことが主の御心だと確信するようになりました。ペテロのように、妻を得、教会からの全面的な支援の下に生きる伝道者もあれば、パウロのように働きながら伝道する人もいることが御言葉の中にたくさん書かれてあります。パウロは『困窮していたときも、だれにも負担をかけませんでした(Ⅱコリント11:9)』と言っています。働くことの聖書的な背景として、伝道者が信徒に負われるという奉仕の仕方もあれば、自分で働いて教会に捧げつつ生きるという生き方もあります。社会で働き始めて17年が経過した後、自分に得た確信のうちに、こういう聖書的な背景を見ることで、働くことに対する自信・確信がついてきました」と証しした。
純子氏は公務員として17年間市役所で働くことで、融資を受け、献金で返済していくというスタイルをとって会堂建築に至ったという。また市役所で働く経験を通して「市役所に入りまして、隣に座った青年がまず信仰をもちました。いつもこの方は私に進化論を教え、私がキリスト教の伝道をしていました。彼はある時妹さんのことですごい悩みの中に陥れられました。そのとき、私たちの教会に来て、教会でカウンセリングをして、50日間教会に通い詰めることで、この方は救われました。また職場で私の向かい側にいる女性が、その後に信仰をもつようになり、この人たちが結婚しました。クリスチャンホームをつくり、子どもたちもクリスチャンになりました。この状態を見た時に、『神様が私が市役所で働いている』ということを良しとされているという確信が湧きました」と証しした。
保険師として役所で働く純子氏は、地域の新生児から高齢者までのトータルケアをしていたため、地域に顔を売ることができ、宣教の地盤が得られ、社会的な信用も得ることができたという。
公務員生活を経た純子氏は現在、「働くことに自信を持つことができましたので、未だに色々辞めずに仕事をしています。地域社会が私を求めていることがよくわかり、今も保健センターや介護保険の認定委員、看護学校での講師、企業での保健指導などを行っています。神様が私にお仕事をくださり、『一杯働いて一杯捧げなさい、そして分け与えなさい』とおっしゃっているのかなとも思います。定年後もずっと仕事をして楽しくて止められず、仕事を止めることが考えられません」という。
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