全聖公会一致のための4つの機関
輿石氏は講演を通して全聖公会(アングリカン・コミュニオン)の歴史的発展の経緯、世界の聖公会一致のための組織構成について説明した。全聖公会は一致のためにカンタベリー大主教、カンタベリー大主教の招聘によって10年ごとに開かれる主教たちの集まりであるランベス会議、主教、司祭、信徒などの代議員が3年ごとに集まる聖公会協議会、各聖公会管区の主座主教が必要に応じて集まる主座主教会議の4つの機関が存在しているという。この4つの機関を通して各管区聖公会の現状を理解し、一致を促進しているという。
全聖公会の霊的指導者であるローワン・ウィリアムズカンタベリー大主教が今年一杯で退任することになるが、次期大主教は英国女王の下決定されることになる予定であるという。
輿石氏はウィリアムズ博士がカンタベリー大主教としてこれまで果たしてきた役割について、「ローワン・ウィリアムズ大主教は、リベラルな神学者で、自分の意見を言うが、場合によってはそういう意見を開陳することが不快感を呼び起こしたり、入らぬ抵抗を呼ぶときは『敢えて言わない』ということができる理性的な神学者で、相手を挑発するようなことは一切しなかった」と評価した。
また全聖公会のそれぞれの機関について「大主教は歴史的に英国国教会の一致のための役割を果たす使徒職を代表する役割として機能してきました。その後全聖公会の一致のために各国・地域の主教たちをすべて集めて相談する機会を作る必要が生じるようになり、ランベス会議が開催されるようになりました。ランベス会議では最初、聖書や伝統に背くかに見える主張をする主教に関する法的な判断のために招集されたので、ある種の決定権を持っていたということができるかもしれません。特に第二次大戦後、英国の旧植民地の独立に伴って教会も独立し、一層の多様性を抱える全聖公会が形成されるに至って、それに対応する機関が必要になり、1968年のランベス会議で世界の聖公会教会全体のための一致の機関として全聖公会協議会の創設が決議されました」と説明した。
現在全世界に40ほどの聖公会管区が存在しており、数カ国で一つの管区になっている場合、英国のようにウェールズ、アイルランド、スコットランドが独立した管区となっている場合、その他一国で一つの管区を形成している場合があるという。
全聖公会の歴史的発展の経緯と直面した問題とは
輿石氏はこれまでの全聖公会の歴史的経緯について説明した。ランベス会議が初めて開かれた1867年には、現在も同様ではあるものの、南アフリカのナタールに派遣された英国人主教が、ナタール人のポリガミー(一夫多妻制)を擁護したことに起因する英国教会を二分するような議論が生じていたという。この件に関してカナダ地域の教会を中心に、広く協議する機会を設ける提案がなされ、その提案に基づき、1867年に最初のランベス会議が招集されたという。なお、問題となった英国人主教は、ランベス会議以前にナタールの教会の責任者によって除名され、本人も最終的にそれを受け入れたので、この問題が最初のランベス会議の直接の議題とはならなかったという。
全聖公会の一致は第一次世界大戦と第二次世界大戦という二つの大きな戦争によって非常に大きな刺激と衝撃を受けることになったという。その一つの大きな事柄は植民地の独立であり、1931年に一回ランベス会議を開いた後、1948年までランベス会議が開かれない状態が続いたという。1948年は世界教会協議会(WCC)が設立された年でもあり、世界的にも戦争が終わってやや落ち着いた時期であった。
全聖公会の自己理解は「宣教における協働」にある
その後1954年にアメリカミネアポリスで聖公会大会、1958年にランベス会議、1963年にトロントで聖公会大会が開催され、世界の聖公会の一致のための機関が構想されてきたという。1968年のランベス会議においては、世界の聖公会の教会全体のための機関として、全聖公会協議会の創設が決議された。この機関の目的に深く関わる聖公会の自己理解「宣教における協働 (Partners in Mission)」も共に採択され、それぞれの聖公会に属する各教会の間で、「伝道した教会、伝道された教会、母教会」などの区別をなくし、全聖公会としてのつながりの中でそれぞれ対等の教会という位置づけをするようになったという。一方、1968年は教会だけではなく、また洋の東西を問わず著しいパラダイム転換の画期でもあり、1971年にケニアで開催された第一回の全聖公会協議会では、すでに世界の聖公会がパラダイム転換に関わる困難な問題を抱え始めていたという。
全聖公会が戦後世界のパラダイム転換期で直面した大きな問題として、女性司祭の按手問題と同性愛聖職者の問題が生じるようになったという。米国では女性を司祭に按手しようという動きは1930年代から生じていたという。また女性が聖職になることが認められないということで、優秀な女性の聖公会会員が海外の宣教師として出て行ってしまうということが生じてきたという。
1970年には米国聖公会は、非合法な形で総会の決議を得ないままに女性の聖職を認めるに至ったという。その後の1978年ランベス会議では、世界中で多くの社会問題や独立運動が各地で生じており、女性の聖職者按手という神学的問題まで関与する余裕がなかったという。そのような中にあって、これまでの聖公会の歴史と伝統の中で行ったことのないことを行うにはどうするべきかについて、世界の各聖公会管区を代表する主教らが会議する組織が必要になり、カンタベリー大主教と責任ある各管区主教だけで協議を行う機会として主座主教会議が組織されるようになったという。1978年のランベス会議の翌年79年に第一回主座主教会議が英国で開催され、その後隔年で同会議が開催されるようになったという。
交わりを絶たず、対話を続けるあり方を模索
1988年のランベス会議では同性愛者の叙任、女性司祭、女性主教の問題でかなりの荒れ模様となったという。この問題に対処するため、カンタベリー大主教が首座主教会議と相談して「交わりと女性主教に関する委員」を指名し、全聖公会の各管区間の関係、特に、1つの管区の決断を他が受け止める過程(受理の過程)を保証する道を検討させることを決議したという。また、同会議では、特に三位一体の教理、教会の一致と職制、人類の一致と共同体を考慮した上で、「交わり」の意味と性質について更に検討するための「神学教理委員会」の新設をも決議された。「交わりと女性主教に関する委員会」のレポートでは1.全聖公会は交わり(コイノニア)であり、2.その交わりにあっては、他の管区が行うことに賛成できない管区があるのは当然のことであること、3.しかし、賛成できないことを他の管区は行っているということを認め対話を続けることを「交わり」は要請する(開かれた受理の過程)ことが記されたという。
他方、全聖公会神学教理委員会は「聖公会の信仰と組織」という報告をまとめ、全聖公会の一致のための4つの機関について記した他、聖公会の交わりにおける地域主体性(ローカル・イニシアチブ)の重要性も強調されたという。
このような委員会の報告書では、WCCの特に信仰と職制委員会の文書、他の諸教会との合意文書やエキュメニカルな対話などの成果も踏まえられたものであったという。輿石氏は同報告書について、「聖公会の伝統を新しい光の中で見直した新しい見解がまとめられ、それが世界の聖公会の多くの教会で広く学ばれたことが、現在の全聖公会にそれなりの影響を与えていると言うことができると思う」と述べた。
その後1998年のランベス会議では、全聖公会が危うく分裂するかのような危機的な状況に陥り、会議中に帰ってしまう主教らが続出したという。同年の会議では、同性愛の問題について「聖書の教えから見て、男性と女性の間の生涯にわたる結婚が正しいものであることを支持する」、「結婚へと招かれていない禁欲主義が正しいものであると支持する」ことが決議され、「同性愛が違法である」ことがはっきりと決められたため、この決議に対する反対者が多く生じた他、決議でこのようなことを決定すること自体に反感を感じる意見も生じたという。
同性愛者に対する全聖公会の対応として同年の会議では、「われわれすべては同性愛を聖書と相容れないものとして拒否しつつ、性的嗜好に関わらず全ての人を牧会的にまた感受性豊かに牧すべきである」と決議されたという。
2001年には、カナダ聖公会ニューウェストミンスター教区において、同性愛の人々のための共同生活を祝福する式文が主教の承認を受ける前に作成されるに至ったという。米国聖公会、ニュージーランド聖公会では女性の主教が生じ、その後米国聖公会では同性愛者の主教も生じるようになったため、全聖公会の一致が危ぶまれるようになったという。
2002年にカンタベリー大主教としてローワン・ウィリアムズ氏が就任した後、同年12月の主座主教会議では「ランベス委員会」と称する委員会が設立され、その委員会において、聖公会の現状を何とか分裂しないで収めるような方策を考えるべきであるという提案がなされたという。
輿石氏は、「2008年のランベス会議では、『インダバ』という方式(法的拘束力のある決議をするのではなく、交わりを共有し合う)が世界の聖公会で推奨されているように思われる」と述べ、「最近の隠れた潮流ではないでしょうか。そういう意味でむしろ『交わり』ということであれば、ローカル・イニシアチブ、地域の主体性を発揮して、日本聖公会は何を優先事項として行うのか、それをどのように行うのかの分かち合いをしようとしている気がしてならない。5月末にここ(聖バルナバ教会)で日本聖公会の総会が開かれた。こんなに議論が低調だった総会は見たことが無いというくらい議論が低調だった。つまらない議論はしないという雰囲気になってきたと思う」と述べた。
次ページはこちら「『中道』ではなくテンションを抱え込む」