2010年に開始された新しい日本語聖書の翻訳事業を進める日本聖書協会(大宮溥理事長)は2日、土戸清・前日本新約学会会長を招き、第28回春の聖書セミナーを東京・銀座の教文館ウェンライトホールで開催した。土戸氏は、委員会訳においては「信仰の模範の書」と「信仰の歴史の書」という聖書の二つの特質をはっきりと示す翻訳であることが重要だと強調し、聖書学の成果を十分に踏まえた聖書翻訳の必要性を訴えた。
セミナーは「聖書 委員会訳と個人訳」をテーマに全4回行われる。今回はその第1回目。2回目以降の講師は加藤常昭・説教塾主宰(16日)、木田献一・前山梨英和学院院長(30日)、高柳俊一・上智大学名誉教授(7月14日)で、4人の講師を交えた座談会も予定されている。
講演で土戸氏は、まず底本研究の重要性を強調した。底本とは、翻訳の対象となる本文のこと。古代の文献に共通のことだが、2000年ほど前に執筆された新約聖書も原本はすでに存在しない。そのため、発見された手書きの写本を比較検討し、本文を決定しなければならない。翻訳聖書の基礎となる底本研究は長い歴史を持ち、現在では他の古典研究のモデルになっているほどだ。
土戸氏は、底本研究の具体例としてヨハネ福音書1章3、4節の問題について言及した。同節については、底本として定評のあるネストレ版のギリシア語新約聖書が第26版(1979年)以降、最新版の第27版(1994年)でも聖書学の研究成果に基づいて従来の読み方を変更している。
土戸氏は、日本語聖書の「新共同訳」(1987年)の底本となったUBS版でも初版(1966年)から最新版(1994年)に至るまで同節で同様の読み方が採用されているにもかかわらず、同訳では以前の読み方がそのまま継承されていることを指摘し、再考を求めた。
次に土戸氏は、委員会訳では「信仰の歴史の書」としての学問的な批判に耐えうる必要性があると指摘し、3つの具体例を挙げた。
第一に、ヨハネ福音書やパウロ書簡の「ユダヤ人たち」(ヨハネ福音書9章22節等)などの表記について、過去に一部の学者から反セム主義と反ユダヤ主義を生み出すとの問題提起があったこと、また、その批判に耐えうる聖書学的な研究成果がすでにあることを紹介した。そのうえで、委員会訳の翻訳聖書を今後新しく刊行する際には、それに関連する研究の動向を十分考慮する必要があると指摘した。
第二に、使徒言行録24章5節で日本国際ギデオン協会が採用する個人訳聖書が「ナザレ派の首謀者」と訳出していることについて、「まったく新約聖書の時代の史的状況を考慮していない」と厳しく批判し、「『ナザレ人の分派』の首謀者」(新共同訳)との訳出が聖書学的に正しいと主張した。
第三に、使徒言行録24章14節の訳語について、口語訳(1954年)が「異端」と訳出していることを「聖書学的観点からすると誤訳と言える」と指摘し、新共同訳の「分派」が正しいと説いた。その理由として、ユダヤ人社会における正統と異端の問題は、西暦70年以降、特に85年ごろ以降に起こったユダヤ人キリスト者追放という歴史的事件後に生じたもので、西暦70年以前のユダヤ人社会ではまだ生じていなかったことを挙げた。
さらに土戸氏は、委員会訳が「信仰の規範の書」としての聖書の特質を示すべきとの観点から、2つの論点を提起した。
第一に、新共同訳で「掟」(ヨハネ福音書13章34節、ヨハネの手紙一2章7節等)と訳されている「エントレー」について、「掟という訳語は命令、指図の意味合いが強い」とし、「言い聞かせて納得させる、教え導く」との意味合いをもつ「いましめ」(口語訳)の方が訳語としてふさわしいと主張した。また、ヨハネによる福音書13章34節では、「モーセの十戒」と対応するものとして同語が使われていることも理由に挙げた。
第二に、新共同訳では「パルーシア(来臨)」が、ペトロの手紙二1章16節の「来臨」を除いてほぼ「キリストが来られる」という動詞として訳出されていることについて、「来臨、再臨はキリスト教神学用語としても定着している」とし、再考を求めた。
最後に土戸氏は、委員会訳聖書の歴史において各国の聖書協会の果たしてきた役割の重要性を指摘し、「日本の聖書協会のもつ役割はこれからも大きい」と同協会の翻訳事業に期待感を示した。