わたしは平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(ヨハネ14:27)
1.はじめに
私たちの生活は不安に満ち満ちています。そして不安からくる思いのわずらいや恐れに満ち満ちています。日本の政治・経済はこれからどうなってしまうのだろうか。自分の仕事や家計はいったいどうなるのであろうか。夫婦の関係は?親子の関係は?病気になったらどうしよう?試験に落ちたらどうしよう?交通事故にあったらどうしよう?年をとったらどうなるか?地震になったらどうしよう?外国から核ミサイルが飛んできたら?少しでも先のことを考えると、不安になってしまいます。
それはいったいどうしてでしょうか。その理由は、私たちにはこれから先のことは何もわからないからです。阪神大震災が突然起こったように、誰ひとりとして予知しないことが起こりうる世界に生きているからです。
2.漠然とした不安の中で
私も長い間漠然とした不安の中で生活してきました。少しでも確かな平安を得ようとして、一生懸命に勉強して大学に入り、また勉強して弁護士になりました。
国際的な法律事務所に入って、日本と外国のビジネスにかかわるさまざまな法律問題に取り組むことになりました。当時は日本経済の発展期で、次々に大きなプロジェクトにかかわることになったのです。それらには従来の考え方では対処しきれない、新しい法律問題がたくさん含まれています。
弁護士になったら少しは平安になるかと思っていましたが、実はその逆で、数々の難しい法律問題の解決・処理に取り組んでいるうちに、ますます不安になってきました。「私はこんな大きなプロジェクトを処理できるだろうか、こんな難しい法律問題を解決できるだろうか」と、日夜思い悩むことになったのです。
そこで、「これはおかしい。これではどこまで行っても不安から解放されないでないか。もう一度自分の人生を根本的に考え直してみよう」そう思って奨学金をもらってオーストラリアの大学に留学しました。
留学といっても主たる目的は勉学ではありませんでしたから、授業にもほとんど出席せず、毎日フラフラと生活していました。家賃が非常に安かったので、前後に2つの大きな庭のある家に1人で住んで、日本とは全くちがう天国に来たような気分でいました。「こんなすばらしい所なら永住してもいいな」と考えたりしました。
私は「一生に一回でいいから、自分の家の芝刈りをしてみたい」という夢を持っていましたので、喜んで芝刈りをしたら大変な重労働です。本当に一回でコリてしまいました。庭に植えてあった大きなネクタリンの木の実を野鳥たちと競争して洗わずに食べていたら、歯ぐきに雑菌が入って歯医者のお世話になったこともありました。
毎週のように、数十人の留学生たちと、わが家で持ち寄りパーティーをやりました。大勢でワイワイ騒いでいる時は楽しいのですが、パーティーの終わったあと、明け方まで1人でさみしく皿を洗ったことを今でも想い出します。
また日本人の仲間たちとよく麻雀をやりました。あるとき7日間連続徹夜麻雀をやりました。これは私の生涯の新記録となりましたが、そこで麻雀のむなしさを心底悟って、それ以来、麻雀をプッツリやめてしまいました。
日本にいた頃は、仕事のストレスを解消するために、週末には朝暗いうちに起きて、ゴルフバッグをかついでゴルフ場へ行ってゴルフをしていました。「こんな楽しいスポーツはない。よし、オーストラリアに行って毎日ゴルフをやろう。ゴルフ留学だ!」と意気込んで行ったのです。ところが、構内に動物園があって、羊がメエメエ鳴いている側を歩いて大学に通っていると、ゴルフ場にいるような気分です。わざわざゴルフをしに行く気にもなれません。結局3年近く留学していたのに、ゴルフをしたのはわずか数回にすぎませんでした。
白豪主義がまだ根強く残っている国です。経済大国の日本人は「イエロー・ホワイト」として表向きは準白人並みに扱ってもらいましたが、それでも外国人であることには変わりなく、深いつきあいはさせてもらえません。何度もオーストラリア人のパーティーに招かれて行きましたが、そこで味わったのは孤独感でした。結局、狭い日本人コミュニティーでお茶を濁すようになります。日本人同志が集まっては、「やはり日本がいい」と言い合っていました。
そんな天国のような所にいたのですが、しばらくすると、あまりの変化のない生活に退屈し始めたのです。そうすると、また不安になってきました。「私の人生の大転換、新天地を求めてオーストラリアまで来たのに、何も得るものがない。永住するのもいやだ。日本へ帰るのも不安だ。大学を出ても、弁護士になっても、外国に留学しても不安は消えない。ああ、私はこれからいったいどおしたらいいのか」 そのように思いあぐねていたときに、あるきっかけで大学内のクリスチャンの集会に出ることになったのです。
3.イエス・キリストとの出会い
そこで、アメリカから新婚旅行で来ていた青年の話を聞くことになりました。
「私は世界一幸せです。喜びいっぱいです。最愛の妻と巡り会い、結婚することができました。私は妻を心から愛しています。妻も私を心から愛しています。しかし、私には妻以上に愛している方がいます。妻も私以上に愛している方がいます。その方は、イエス・キリストです。イエス・キリストの限りない愛によって愛されている私たちは、世界一幸せです」。
その青年は確信と喜びに満ちあふれ、その顔は輝いていました。私は大きなショックを受けました。「大勢の人々の前で自分を世界一幸せ者だと言い切ったあの青年の確信と喜びは、いったいどこから来るのだろうか。私もそのような確信と喜びを持ちたい」と思いました。
それから、そのグループの皆さんに聖書を教えてもらい、だいぶ長い期間かかりましたが、私もイエス・キリストと出会うことができたのです。
4.イエス・キリストの平安
キリストを信じて、キリストとの間に生きた関係が生まれたときに、「ああ、私はようやく帰るべきところに帰った。もうがんばらなくてもいいんだ。あるがままの自分でいいんだ」と、生まれて初めて神の大きな平安に包まれたような気がしました。
そして心の一番深い所が「神の平安」によって満たされ、それが徐々に広がってくることを体験するようになったのです。その平安はこの世が与えるような一時的なものではなく、永遠に続くような、しかも確実に深くかつ強くなっていくような「神の平安」です。
まことの神(天地万物の創造者)を信じていない日本人の心の奥底には、大きな不安があります。その不安を解消しようとして、一生懸命に勉強したり、仕事をしたり、レジャーに打ち込んだりしているのです。でもそれらは決して私たちの人生の根底にある大きな不安を解消してはくれません。
目先の目標が達成されたり、自分の計画が挫折したり、大きな興奮がさめたりすれば、必ず不安に襲われるのです。その不安は「平安の君」であるイエス・キリストを心の中にお迎えする以外には絶対に解消されない、ということがわかりました。日本人に、いや、世界のすべての人々に最も必要なことは、生ける神・イエス・キリストを心の中にお迎えすることです。
5.重荷を神にゆだねる
なぜなら、イエス・キリストを信じることによって、人生のいっさいの重荷を神にゆだねることができるのです。イエスさまは、こう言っています。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28〜30)
最も多くの日本人が、この聖句によってキリスト信仰へ導かれてきたと言われています。私もその1人です。まことの神を持たない日本人は、真面目に生きようとすればするほど、例外なく人生の重荷に押し潰されようとしているのです。
日本人にとって生きることはなぜ重荷なのでしょうか。それは「自分の力」でがんばって生きようとするからです。自分の体力、知力、能力、財力、人間関係による力などに頼って生きようとしているのです。でもこれらのものはすべて有限であり、とるに足りないものです。
私も長い間「自分の力」によって生きてきました。その結果、生きることがますます重荷になってきました。明日のことは誰にもわからないのに、明日のことを考えては漠然とした不安や想いにとらわれてきました。
しかし、このキリストの言葉に深く触れたとき、「自分のすべての重荷を全知全能の神にゆだねることができるのだ」ということがわかりました。それ以来、私の生活は本当に軽くなりました。自由になりました。私が取り扱ういろいろな問題はますます増えてきていますが、心に不安がありませんから、それが重くないのです。これは本当に不思議なことです。
どんなに難しい問題を抱え込んでも、私が自分の力でがんばって解決するのではなく、「きっと神が解決して下さる」と信じることができるからです。私はイエスさまと一緒に重荷を負っていますが、私の負うべき分(なすべき事)は非常に軽い(小さい)のです。
キリストを信じる前の私は、問題の重圧に押し潰されそうになるのを避けていつも逃げていました。ゴルフであったり、麻雀であったり、デートであったり、旅行であったり、映画やテレビであったり、飲み屋やディスコであったり、いろいろな逃げ道を見つけては、避けようとしてきました。
しかし、いくら逃げ回っても、問題の方は追いかけてきますから、いつかは対処しなければなりません。結局、どこまで行っても、重荷を負ってフーフー言いながら歩き続けなければならないのです。
ところが、イエス・キリストを心にお迎えすることによって、イエスさまが私の重荷のほとんどを負ってくださっていますから、あまり負担感(重圧感)がないのです。キリストを信じてから私の日々扱う問題は10倍以上になっていると思いますが、その負担感(重圧感)はかつて感じていた10分の1以下になっていると思います。もう問題から逃げ回る必要はありませんから、必然的に逃げ道であったゴルフやその他の娯楽・レジャーからいっさい遠退いてしまいました。
テレビは子どもに良くないので見ないことにしています。新聞もあまり役に立たないので定期購読をやめてしまいました。でも仕事や生活に全く支障はありません。かえってその分、心配やストレスから解放されて、家族と有意義な時を過ごすことができます。聖書を読んだり、祈ったりすることができます。
今の私の唯一のレジャーは、家族と一緒に近所を自転車で走ったり、子供たちと野球やサッカーをしたり、息子の将棋の相手をすることです。
いつも心に平安があるということは本当にすばらしいことです。
6.明日を思いわずらわない
私たちの不安のほとんどは、明日、5年後、10年後、20年後、どうなるかわからないことから生じています。誰でも「今日一日のことならなんとかなる」と思っているのです。若いうちから老後のことまで心配して、高額の保険を買ったりしますが、自分が年老いたときにその保険をもらえるかどうか(保険会社が存続しているかどうか)は、誰にもわからないのです。要するに、老後に対する不安を、今解消しようとしているにすぎません。でも本当は、保険に入っているからといって「老後は絶対に安心だ」とは言い切れないのです。
この問題に対して、聖書には単純明快に解決が示されています。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。1日の苦労はその日1日だけで十分である。(マタイ6:31〜34)
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、私は背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救いだそう。(イザヤ46:4)
この日は主が創られた日である。私たちはこの日を喜び楽しもう。(詩篇118:24)
要するに、神は私たちに「明日のことを心配するな。あなたの老後も大丈夫だ。だから、今日という日を喜んで、楽しんで生きなさい」と言っているのです。
天地万物を創られて、これを完璧に支配し、所有しておられる神が「大丈夫だ」と言っておられるわけですから、「絶対に大丈夫」なのです。「絶対に安心」なのです。キリストを信じることによって、このような「揺るがない平安」が与えられるのです。これはお金で買うことができない「平安」です。この世の何ものをもってしても得ることのできない「平安」です。イエス・キリストを心の中にお迎えして、イエスさまと一緒に生きることによってしか得られない「神の平安」なのです。
キリストの平安があるからこそ、私たちは神が私たちのために創って下さった「今日という貴重な1日」を喜んで、楽しんで生きることができるようになります。そうすると、明日を思いわずらわないだけでなく、今日の今をも思いわずらっていない自分を発見するのです。イエスさまはいつも、「どんなことも思いわずらってはいけない。不安になってはいけない。ただ、わたしを信じなさい。そうすれば、あなたはいつも安心していられるのだ」と言っておられます。キリストを信じることによって、誰でも、人知を越える「神の平安」に満たされて、「私は世界一幸せです」と言うことができるのです。
あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることができない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(ピリピ4:6)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。