頭の上の盆林檎
小さな真綿をくわえた蜂の後を夢中で追いかけた。河原を走った。林の中を駆けた。田のあぜを蜂の真綿を見失わないように走った。ところがである。その蜂が囲いの無い林檎畑に入っていったのである。その林檎の畑の持ち主が、見つけて育てていた蜂だった。がっかりして上を見上げると、青い小さなお盆の頃食べる盆林檎が木に実っていた。周りを見たがいや遠くまで見渡したが一軒の二階の農家が遠くに見えただけで人影は何処にも無かったので、林檎をむぎ採った。皆で河原の土手で林檎をかじっていた。どのくらい時間が経過したか知れないが、「こらー」という声とともに大男がすぐ後ろに立っていた。食べかけの林檎も、手ぬぐいや、水浴びの衣類もそこに捨てて逃げ出した。広い川をどのように逃げたか覚えていない。気が付いて立ち止まると、私より二年上級生のT君が大きな男に捕まえられて泣きながら連れて行かれているではないか。
上級生たちは相談した。親や学校に知られたら大変だから謝りに行こうという話がまとまった。謝りに行き土手の石の上に座らせられた。ぶよが体を刺す。かゆいので手を動かすと「動くな」と大声が飛んできた。「お前の父親の名前は何というのか」。「工藤武雄と言います」。「母親は」。「静江です」。「父と母と学校には言わないで欲しい」と手をついて憐れみをこうた。その場は何とか逃れたが、次の日分教場に行ってみると、一年上の岩子さんの家の林檎を盗んでいたのだから先生や学級の友達が知らないはずはない。あの時から林檎が嫌いになった。林檎を見ると「こらー」という声が心に聞こえてくる。河原の石の上をすべりながら夢中で逃げた姿が浮かんで惨めになる。
終戦後ラジオから「赤い林檎に唇寄せて、黙って見ている青い空、林檎は何にも云わないけれど、林檎の気持ちは良く分かる、林檎可愛いや、可愛いや林檎」が聞こえてきた。
「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、メイメイ小山羊が鳴いています」も心に残っている。この林檎の歌が私を悩ませた。人の物など盗むものではない。喜んで歌えるはずの歌が歌えない。おいしいはずの林檎が美味しくない。
高校生になって大町の駅まで歩いて通った。大町の次の駅には昭和電工というアルミニウムの工場があった。岩子さんの兄さんは、昭和電工に勤めていた。私が高校に行く時間に後ろから自転車でやってくるのが常であった。岩子さんの兄さんに追いかけられ石の上に座らせられ叱られたのだ。私はそのことで、朝の一番気持ちのよい時に、いやな気持ちにさせられた。もう人の畑の果物には手を出すまいと高校三年間も思い続けた。十九歳の時に教会に行くようになって、神に対して林檎を盗んだ罪をおわびし、主イエス・キリストを救い主として受け入れた。岩子さんにはおわびの手紙を書いた。やがて岩子さんから手紙が来た。「すっかり許していること、これからも信仰をして真面目に生活して欲しい」と書かれていた。この時から林檎の味が回復した。
青い盆林檎を盗んだことが十年も、私の重荷となって私を不機嫌にさせた。罪がこんなに私を惨めにしたのだ。私は林檎が好きになった。主イエスに罪を許していただかなかったら、一生林檎で悩まされていたことだろう。
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