さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。……「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。……」十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「……あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。……人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:35〜45)
最近はAIやロボット技術が目覚ましく発展し、医療の現場でも、かつては熟練の職人芸と言われた「麻酔」の管理をコンピューターが代行する時代になっています。人間の命を救う技術は進歩しましたが、私たちの魂の救いや罪の清めについては、ロボットも人間も決して手出しはできません。それは、救い主イエス様にしかできないことなのです。
今日の聖書箇所では、イエス様のすぐそばにいた弟子たちでさえ、栄光の座を求めて抜け駆けしようとする姿が描かれています。彼らはイエス様が歩もうとされる十字架の道ではなく、自分たちの出世や名誉に心を奪われていました。
イエス様は、偉くなりたい者は、仕える者になりなさいと言われましたが、その当時、彼らには、その意味は伝わらなかったようです。私たちは、人間の理屈をいったん脇に置き、私たちの罪を背負われたイエス様の真の姿に、しっかりと信仰の焦点を合わせていこうではありませんか。3つのことを確認したいと思います。
1. 人の心の欲、わがままに要注意!!
私たちは自分を「善人」だと思いがちですが、人間は、元々わがままで罪人なのです。イエス様と寝食を共にしたヤコブやヨハネでさえ、主が苦難に向かわれる傍らで「自分たちを高い地位に座らせてほしい」と出世を願いました。
現代のAIが使用者にこび、自分を正当化してくれるような環境では、わがままが助長されます。信仰者であっても、主を悲しませる自己中心的な欲に支配される弱さがあることを自覚し、十分注意しましょう。
2. 人の持つ罪の恐ろしさ!!
聖書が教える私たちの「罪」は、単なる失敗や謝れば済むレベル、あるいは刑務所に入れば償えるという程度のものではありません。良い行いをしていれば、そのうち帳消しにされるようなものでもありません。
それは、神の御子であるイエス様の清い命を捨てなければ贖い切れないほど、深刻で恐ろしいものです。多くの宗教は修行や努力で救いに至ると説きますが、聖書は人間の力ではどうにもならない罪の現実を突きつけます。
私たちは他者と比較して安心するのではなく、主の尊い命を要求するほどとてつもなく重い罪を自分が背負っていたという事実を、厳粛に受け止める必要があります。
3. 人の罪を赦すために、ご自身の命をささげられる主!!
イエス様は「仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の贖いの代価としてご自分の命を与えるために」来られました。私はかつて祈っているときに、十字架で血に染まる主と目が合ったような感覚を持ちました。主は、私たちの身勝手な理屈をはるかに超えた愛をもって、自ら極悪犯として十字架にかかり、私たちの身代わりとなってくださいました。
この尊い犠牲こそが、私たちが罪から解放され、永遠に生きるための唯一の根拠なのです。自分の良さに頼らず、十字架の主を見つめましょう。主が共におられるから、私たちは守られ、導かれ、大丈夫なのです。私たちの罪を背負って十字架の道を歩まれた主に感謝して祈りましょう。
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