イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。……イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。……イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。(ルカ4:38〜41)
ある配信サービスが、人気の大谷選手見たさにネット受信契約する人々を狙って、150億円もの巨額でWBCの放映権を買い取ったようです。しかし、一人のスーパースターに注目するよりも、全世界の80億人皆に注目してもらわなければならないのは、イエス様です。
人々を救い得る名は、この名以外にはないと言われているイエス様に、信仰によって目を向けることです。その信仰も中途半端なご都合主義ではいけません。日本で「天使にラブソングを」のミュージカルをするというので、日本人俳優たちが成功祈願に行ったのが、教会ではなく、水天宮。それこそ宗教音痴と言わざるを得ません。
今日の聖書箇所から、本物の癒やし主と向き合い、中途半端な「困ったときの神頼み」ではない、確かな信仰を持つための4つのポイントを押さえながら、学んでまいりましょう。
1. 私たちの空想ではなく、本物の救い主、癒やし主の日常を知ろう!
イエス様の生涯は、人々の前に出るときだけ格好をつけるようなものではありませんでした。ある時、私が出会った講演家は「半年間、山にこもっている」と霊験あらたかそうにしていながら、実は山中の別荘にいるだけでした。
しかし、聖書が語るイエス様は正反対です。朝から御言葉を語り、会堂を出ればシモンのしゅうとめの熱を癒やし、日が暮れても押し寄せる病人一人一人に手を置いて癒やし続けられました。
ご自分の時間も体力も、文字通り命までも与えてくださった、事実としてのイエス様を認めましょう。
2. 徹頭徹尾、正真正銘の癒やし主であられる主!
イエス様の癒やしは、たまたま数人治ったというような不確実なものではありません。連れて来られた人々が「ことごとく」癒やされたのです。
イエス様は単に、心に平安を与えるだけの存在ではなく、肉体の病や霊的な苦しみからも完全に解放する力を持っておられます。当時の社会で疎まれていたような人々にも自ら手を伸ばし、癒やされたのです。
昨日も今日も変わることのない、100パーセントの癒やし主であり、救い主であるイエス様を、今、信じ受け入れましょう。
3. 本物の救い主、癒やし主と向き合おう!
私たちは、遠い昔の遠い外国の話として聖書を読みがちです。しかし、聖霊の働きによって、時間と空間という物理的な壁は取り払われます。
今この場所に、聖書が語る通りのイエス様が確かにおられるという「臨場感」を持って祈りましょう。物理的な限界を乗り越えさせてくださる主の臨在を求めるなら、あなたも2千年前に癒やされた人々と同じように、今ここでイエス様の前に立ち、その癒やしの御手で触れていただくことができるのです。
4. 困ったときだけの神頼みでなく、本物の癒やし主を求めよう!
信仰は、自分に都合が良いときだけ助けを求める「ご都合主義」であってはなりません。聖書は、神が常に私たちと共に歩まれると約束しています。
元気なときも病めるときも、イエス様と本当の接点を持つならば、魂は救われ、病は癒やされ、人生に力強い恵みがもたらされます。イエス様は今も生きて働かれる本物の癒やし主です。
時間や空間の壁を越え、信仰によって主と向き合い、その癒やしと救いの恵みを豊かに受け取って歩んでまいりましょう。
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