夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:16、17)
最近、ゴスペルの巨匠ロン・ケノーリー氏が召天されたというニュースが届きました。彼は「自分はアーティストではなく、生涯一人の礼拝者(Worshipper)だ」と語っていました。28年前に彼を日本に招き、ステージで一緒に賛美させていただいたのは、良い思い出です。
総選挙やオリンピックの話にも通じますが、人は一人では生きられません。政治家は無名の人の一票に支えられ、選手は家族の献身的な支えがあってこそ舞台に立てるのです。
私たちの信仰も同じです。自分だけで頑張る「独り相撲」ではなく、救い主イエス様との関わりの中で生かされることが大切です。今日の聖書箇所にある、イエス様が私たちのわずらいを引き受け、病を背負ってくださった恵み、すなわち「主キリストに向き合うことによる癒やし」について共に分かち合いましょう。
1. 私たちを受け入れてくださる主!
マルコの福音書9章には、悪霊につかれた息子を持つ父親の物語があります。弟子たちが癒やせなかったとき、イエス様は「不信仰な世だ」と嘆かれましたが、突き放しはしませんでした。むしろ「その子をわたしのところに連れて来なさい」と招かれたのです。
私たちの信仰が不十分で、中途半端な状態であっても、主は「病んでいる者を連れて来なさい」と、そのままの私たちを受け入れてくださいます。ここにこそ、癒やしの第一歩があるのです。
2. 私たちの所にまで来てくださる主!
マタイの福音書8章では、百人隊長が部下の病の癒やしを願う場面があります。高名な医師を私たちの家に呼びつけることなど考えられませんが、何と、救い主であるイエス様が、願われる前から「行って、直してあげよう」と自ら出向くと言われたのです。
私たちが主の元へ近づくだけでなく、主の方から私たちの日常や苦しみの中に足を運んでくださるのです。それほどまでに、主は私たち一人一人を深く憐(あわ)れみ、救いたいと願っておられる救い主なのです。
3. 私たちの癒やしを願ってくださる主!
ルカの福音書5章の重い皮膚病の人は、掟を破ってまでしてイエス様に近づき、「お心一つで、私はきよくなれます」と願いました。イエス様は何のちゅうちょもなく彼に触れ、「わたしの心だ。清くなれ」と言われました。
当時、触れることも近づくことも禁じられていた病でしたが、主は自ら手を伸ばし、私たちが健やかになることを誰よりも強く願ってくださいました。主は私たちの病を単なる奇跡ではなく、愛に基づいたご自身の願いとして癒やしてくださるのです。
4. 私たちをいとおしんでくださる主!
ヨハネの福音書11章で、愛するラザロの墓の前で、イエス様は涙を流されました。これは単なる同情ではなく、人間の弱さや死の悲しみを共感してくださる神の愛の現れです。
主は私たちの痛みを遠くから眺めるのではなく、共に泣き、寄り添ってくださいます。このように親密に関わってくださるお方だからこそ、私たちは自らの病や弱さを全て委ねることができます。
主の涙は、絶望を希望へと変える力です。癒やしは、自分の努力ではなく、愛に満ちたイエス様と向き合うことから始まります。主に信頼し、今、癒やしの恵みを受け取りましょう。
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