新型コロナウイルスの感染拡大に応じ、神戸改革派神学校が21日、「ウイルス禍についての神学的考察」を同校のウェブサイトで公開した。同校の吉田隆校長が日本キリスト改革派教会の大会常任書記長から依頼を受け、同校教授会のメンバーからの意見も加味しつつ、個人的考察として執筆したという。考察は、「聖書」「教会の歴史」「教理的文書」「実践的課題」の4つの視点から、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う教会の対応について論じている。
吉田氏はまず、「聖書」の記述から災いや病について考察している。聖書には、多くの人命を奪う災禍として、戦争、飢饉(ききん)、疫病が書かれており、それらはすなわち「人災と天災、そして(古代においては)原因不明の災いの三つ」だという。旧約聖書の記述からは、これらのいずれもが、人間の罪に対する神の懲らしめや裁きによるものだと考えられてきたことが分かる。またそれ故、「これらの災いを治めてくださるのもまた主の御業」として、人々は礼拝で祈りをささげ、災いを神に治めてもらうよう願ってきた。
一方、原因不明の病やカビなどにかかった罹患(りかん)者や建物などを一定期間隔離することは、旧約聖書の時代でも常識だったという(レビ記13~14章)。そのような人々や状態は宗教的に「汚れている」とされたが、吉田氏は、必ずしもその人や物への神の裁きを意味していないとし、詩編38編12節を挙げて「そのような人々を差別して遠ざけるのは、人間の罪」と述べている。
また詩編91編から、神は愛する者を疫病から守られる存在だとしつつも、マルコによる福音書1章41節から、「たといそうでなかったとしても、病に侵された者を深く憐(あわ)れんで触れてくださるのが、私たちの主イエス・キリストです」と指摘。神は「病を支配する方であると同時に、病の如何(いかん)にかかわらず、私たち人間を愛してくださる御方」だとし、ローマの信徒への手紙8章35節から、いかなるものもキリストの愛からキリスト者を引き離すことはできず、病もことさら恐れる必要はないとした。
「教会の歴史」では、疫病が大流行した3世紀の北アフリカの司教キプリアヌスの説教や、同じく黒死病(ペスト)が流行した時代に生きたマルティン・ルターの公開書簡など、疫病の流行に対して詳細な解説を述べている文献から、当時語られた言葉を紹介した。
3世紀中頃、アフリカから疫病が広がり、ローマでも1日5千人近い死者が出るほどになった。この疫病を前に、キプリアヌスは「死を恐れないことについて」と題して説教し、デマを退け、信徒の恐れを取り除くために聖書の物語に言及しつつ、死や病は万人に共通して訪れるが、キリスト者はその精神において異なると力説した。説教では「むしろ私たちは、健全な心と堅固な信仰、強固な徳を備えて、すべて神の御心に従う者となりましょう。死の恐怖を退けて、死の後に続く『不死』について考えるようにしましょう」などと説いたという。
またキプリアヌスは、信者と未信者を分け隔てなく助け、善を行うように勧めたという。こうした愛の働きは、キリスト教公認に否定的だった皇帝ユリアヌスも認めるほどだった。
14世紀の中頃、アジアから欧州全土を襲い、欧州の全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめたとされる黒死病は、その後も散発的に流行を繰り返し、1527年夏にはルターがいたヴィッテンベルクを襲った。君主からは避難命令が出されていたが、ルターはそれを無視して、町の病人や教会員をケアするために残った。そして、キリスト者が災禍を避けて逃れることの是非を問う議論が起こると、公開書簡「死の災禍から逃れるべきか」を書いた。
ルターは、ヨハネによる福音書10章11節から「良い羊飼いは羊のために命を捨てるが、雇い人は狼(おおかみ)が来るのを見ると逃げる」と言い、「命の危険にさらされているときこそ、聖職者たちは安易に持ち場を離れるべきではない」と戒めたという。さらに、困難な中にある隣人を助けないのは殺人と同じだとさえ言い、神が災禍を与えたのは「私たちの罪を罰するのみならず、神への信仰と隣人愛とが試みられるためである」と説いた。その一方で、向こう見ずな危険を冒すのは神を試みる過ちであり、理性と医学的知識を用いるようにも諭したという。
「教理的文書」では、主に「ハイデルベルク信仰問答」から、たとえ理解できなくても、一切が神の御心と御手によってもたらされるという「神の摂理」への信仰に言及。「殺してはならない」と命じる第六戒から命への配慮について、第九戒から罹患した人々への中傷や断罪に力を貸さないことについて、また強者と弱者が助け合い、失われた者を探し、世に仕えることで福音に生きるのが教会の本質であることなどについて述べた。
「実践的課題」では、公的礼拝に集まることを怠らず励まし合うことを勧めつつ、国や行政機関の集会自粛要請については、「権威に服することは、国民の義務」(「ウエストミンスター信仰告白」23章4項)であり、またその一方で「神礼拝は、国家の主である御方に対する務めであり、教会にしか為し得ない国民への奉仕」だとも論じている。その上で、各個教会が「状況を判断しつつ礼拝や集会の在り方を決めることは正当」だと主張。しかし「礼拝出席者をはじめ地域や他者の健康に配慮することは、教会の義務」だとも述べ、礼拝を分散したり、椅子の間隔を開けたり、換気をしたり、場合によっては野外礼拝にしたりするなど工夫をして、教会が感染源とならないように努力することを求めている。
また、日本キリスト改革派教会の教会規程第3部「礼拝指針」から、教会は「やむを得ず、主の日の集会を守れない者のために適切な配慮をする」(4条2)ことが求められており、「インターネット、テープ、ラジオなどを用いた礼拝の可能性を模索する必要」があると述べている。最後には、教会内で感染者が出た場合は保健所に従い、「その方が召された場合の葬儀には、常日頃以上に牧会的な配慮と良識のバランスが求められる」としている。