1)「イマ、ココ、ワタシ」の世界観
歴史の中で神が救いのために介入されたことを信じるのは、すべからず宗教者に共通した思いです。しかし、神の恩寵(おんちょう)、祝福、繁栄を得ている信仰者は「祝福の業」をたたえますけれど、神の「救いの業」については沈黙し、無関心であり、一挙手一投足動かしません。「救われた」という告白は、「祝福の恵み」と「救いのための解放」という2つの違いを曖昧にしています。救われた人々は、魂の救済によって得られる安定、落ち着き、歌に酔いしれています。ですから、貧者、弱者、被災者に対する神の「力ある救いの働き」に無関心に見えるかのようです。むしろ安楽な生活を享受している信仰者に益をもたらしつづける世界、秩序あるルール、祝福の永続性を願っています。「救われた」と告白し合う群れを脅かす勢力、中傷、国々にさらされたとしても言います。
「甚だ善(よ)かりき」(創世記1:31、文語訳)
「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50:20)
「あなたがどこに行こうと、私は共にいて、あなたの前から敵をことごとく絶ち、地上の大いなる者の名に等しい名をあなたのものとする」(サムエル二7:9)
「私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(同7:15~16)
「ユダとイスラエルの人々は、海辺の砂のように多く、食べたり飲んだりしながら楽しんでいた」(列王記一4:20)
「凡(すべ)てこと相(あい)働きて益となるを我らは知る」(ローマ8:28、文語訳)
「常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのことを感謝せよ、これキリスト・イエスに由(よ)りて神の汝(なんじ)らに求め給(たま)ふ所なり」(テサロニケ一5:16~18、文語訳)
プラス思考で読むことができる聖書箇所です。しかし、貧者の「叫び・救い」という「我と汝」にある対話のイメージではありません。敵対する者からの抑圧、差別、迫害で苦しんでいるから、神に対して嘆願している様子はありません。「叫び・救い」のパターンは、「救われた」と告白する恵みの信仰者の生き方とは真逆です。宗教者は、自分たちの行方が現状のままで特に変化なく、現状がハッピーであれば満足しています。「イマ、ココ、ワタシ」の世界観が行き渡っています。神の介入を期待せず、必要とせず、望みません。イマ、ココで、ワタシが所有し、既得権益が保持されることの確信、安心、保証を公約してくれるなら、どんな政治家であっても “Everything is OK.” と現世を肯定する傾向があります。
良き人生を謳歌(おうか)している人々にとり、貧者の救いは重要ではありません。すでに持っている、努力して勝ち得た生活基盤を喜び、祝い、失うまいとします。「すでに」持てる人々と、「いまだ」持たざる人々の間には、目に見えない境界線が横たわっています。南北格差にも鈍感です。国連の常任理事国、世界的な機関、宗教エリート帝国は新しさを信じません。世界の価値観は、イマ、ココ、ワタシのあるままを維持できるシステムが最上と考えます。持てる人々にとり、物事がイマのままあり続けることは心からの願いです。地震、津波、台風などの自然災害もすぐさま飼い慣らされます。もし飼い慣らされなければ、法、秩序、体制から追い出されるか、押しつぶされるからです。技術者的精神、プロフェッショナルな専門家、医療技術が被災現場でも幅を利かせます。
「視(み)よ、われ一切(すべて)のものを新(あらた)にするなり」(黙示録21:5、文語訳)とイエスは言われました。しかし、医療・技術・数値至上主義者は、マニュアルで予測し、管理することの専門家です。「新しい」刷新は望まないのです。西暦1世紀にイエス・キリストは人々を解放するために立ち上がられました。「そこでは、ごく僅(わず)かの病人に手を置いて癒されたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6:5~6)。その時から人類は、神の救い、介入、解放を望んでいません。権力の構造がある階級社会では、預言者の声は封じ込められます。敬われません。なぜなら「新しい」価値観は、混乱の原因であり、破壊的であり、異端として退けられるからです。それでも街角で訴えるのは変わり者、お金で雇われた人、狂人ぐらいです。
2)十字架で勝利されたイエス
「私たちが正気でなかったというなら、それは神のためであった」(コリント二5:13)。イエスはこうも言われました。「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」(ルカ10:18~19)
蛇、さそり、敵による恐怖、憤怒、脅威は世界からなくなっていますか。しかし、イエスは言われました。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と。イエスは十字架で勝利なさったのです。この世の君であるサタンの座はぐらつき、高い所から落とされたのです。すなわち、がれきによる圧死、洪水死、家屋の破壊は打ち負かされたのです。
土木工事の責任者、国土交通省、行政の首長、病院長たちは責任者のように見えますけれど、責任者ではありません。イエスが「視よ、われ一切のものを新にするなり」と言われたのです。持たざる者を悲しませることがなくなったのです。「神みづから人と偕(とも)に在(いま)して、かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給(たま)はん。今よりのち死もなく、悲嘆(かなしみ)も號叫(さけび)も苦痛(くるしみ)もなかるべし。前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり」(黙示録21:3~4、文語訳)、と神は約束なさいました。サタンはすでに打ち負かされています。牙の抜かれたライオンにすぎません。神は約2千年前に、すでに「新しい世」を歴史上持ち込まれたのです。すでに起こったのです。
あるいはいまだ起こっていない2つの方向のはざまにおいて、傷ついた「持たざる人々」の叫びに「共感」して行動するように言われました。正義が成就するのは、世界の規範、承認、人工知能(AI)によるものではありません。なぜなら世界は「新しい世」を信じず、理解しないビジョンを見つめ、数字を計算しながら進んでいるからです。地球的スケール、連綿と続いてきた不公正、抑圧の大河にあって抗(あらが)わねばなりません。
キリストは「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を100匹持っていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残して、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか」(マタイ18:12)と言われました。一人でも怒り、苦しみ、悔しさが見いだされるならば、そこへ向かうのです。
<結論>
人間の造った人工的なコンクリート工法が大きな被害をもたらしたことを、ご一緒にたどってきました。砂防法を盾に、国は、ダム、道路、トンネルなどを全国の至る所に建設してきました。しかし、人間の技術至上主義、経済至上主義、軍需至上主義のいずれもが、21世紀に入ってから「リング・オブ・ファイア」(環太平洋造山帯)における「危機の時代」のトンネルからの脱出の道が分からず、火山、南海トラフ、温暖化に対する恐怖で打ちのめされています。
「人々は、これから世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失うだろう。天の諸力が揺り動かされるからである」(ルカ21:26)と書かれているように、「世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失う」のです。地球を世話する責任を持った人類は、いつしか利己的、威圧的、快楽的な「支配者」に変貌しました。「御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた」(詩編8:7)という被造物を治める本来の使命、役割と責任を忘却してしまったのです。「叫ぶ・救い」の構造の修復を、貧者、孤児、寡婦(かふ)は待っています。痛めつけられた人々に共感、共振、共苦する人の登場が待ち望まれています。立ち上がるのは、おそらく名もない一握りの人々でしょう。
人間は技術・経済・軍需至上主義から視座を変え、人間の方から自然界に和解する復興が迫られています。自然を破壊し、利益の対象として利用し、放置してきたのは人間です。自然ではありません。農薬使用による田んぼ、樹木の伐採の放置、生活排水やコンクリート製の防潮堤によるプランクトンの死滅などを終結させる和解の福音の使節が、日本、否、「リング・オブ・ファイア」、世界を変革します。人々のいのち、暮らし、人権を大切にするように、刷新の時代へのシフトを担うマイノリティー(少数者)を、神はどこに隠しておられるのでしょうか。(終わり)
◇