私たちは、無意識の中で、ある特定の人を「すごい!」と思っていることはないでしょうか? その人が著名であったり、地位があったり、学歴があったり、財産を持っていたり、名声を得ていることが理由かもしれません。
こういう人たちは、他の人たちが持っていないものを持っていることは確かです。しかし、それだから優れていると言えるでしょうか? それは、うわべだけの違いで優劣を付けていることにすぎず、その人を特別視するにはあやふやな価値基準です。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)
人のうわべだけで優劣を付けるのは、口や鼻や耳や目が大きいということで「立派な人」だと決め付けているようなものです。
人の価値は、人を造られた創造者だけが決めることができます。人を造られた神は、人の価値をどう見ておられるでしょうか?
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)
創造者である神の目には、人は高価で尊く映っています。あなたに対しても同じです。
神の目に高価で尊く映っていることを知ったら、自分に対して、神の目を通して見るようになり、もう自分の価値を人と比較して低いと感じる必要はなくなります。
他の人に対しても、神の目に高価で尊く映っている人として見るようになり、他者が素晴らしく見えるようになり、人をうわべだけで判断することがなくなります。
人は、みんな違いますが、みんな違った素晴らしさがあります。人に優劣を付ける偏見から解放されて、人を高価で尊い存在として関わっていけたらいいですね。それが人を愛することにつながっていくはずです。
多くの人は、自分と人を比較して、劣等感か優越感を持っています。正しい尺度ではありません。顔を例に取るならば、口も鼻も耳も目もみんな違うけれど、みんな素晴らしいのです。人も同じです。
自分が持っていないものを持っている人を見ても、劣等感やねたみを感じる必要はありません。素直に素晴らしさを認めて、称賛したらいいのです。同時に、その人が持っていないものを自分が持っていることを認めて、感謝したらいいのです。
人と人の違いは、比較するためのものではなく、互いに調和して助け合い、補い合い、さらには、学び合うためにあります。互いに成長し合い、互いに高め合っていけたらとても素晴らしいと思いませんか。
私もあなたも、共に素晴らしい存在です。素晴らしい者同士、力を合わせて、素晴らしい社会、素晴らしい世の中、素晴らしい世界を作っていきたいですね。
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