故郷
私は北アルプスの麓に生まれた。父の名は武雄、母は静江、歳の離れた三人の姉と、体の弱そうな兄がいた。父の仕事は左官で父の父も左官、父の五人の兄弟の四人は左官をしていた。私は七番目の子どもとして、支那事変の始まった同じ年月に生まれた。二人の姉は子どもの頃に亡くなり、待ち望んで生まれて来た男の子は三才の時に種痘の後高熱を出して知恵遅れになった。その知恵遅れのまま大きくなったのが私の兄である。
兄が病気になった時に私は生まれた。男の子だったのできっと大喜びだったと思う。
私の下に仁という弟が生まれた。弟は私の小さい時に亡くなった。仁が死んだ時に沢山の人が集まって来たことを覚えている。
寿美という姉に初めて大町で会ったのは、小学校四年の時のことだった。東京から、かわいらしい女の子を連れてやって来た。
寿美、寿美と姉を呼び捨てに女の子はしている。
後で知ったのは姉は私が生まれた頃から住み込みでS医院で働いており、女の子は医院の一人娘であった。その病院の大事な大事なお嬢さんと水遊びをしたり、木崎湖にいって泳いだことなど今も懐かしく思い出す。第二次世界大戦に敗れて二年目であったので衣類も、布団もなかった。家の中にあったボロきれを丁寧にたたんで敷き布団にして泊まっていただいた。私より一つ年上のK子さんは姉が乳飲み子の時から世話をさせて頂いていた。
舗装されていない田舎道を送り、別れる時に泣きたい気持ちになった。楽しい時が終わってしまうのが妙にさみしかったのかもしれない。
二番目の英子姉と三番目の栄子姉は、看護婦をしていた。父は背が低かったので、丙種合格で直接軍隊に入隊しなかった。そのため一番下の栄子姉は、父の代わりに野戦看護婦になり、お国のために尽くそうと決心した。
当時の国民学校の教育は、軍国主義に固まっていた。
栄子姉は諏訪湖の近くにある日赤病院に勤めていたが、戦争も終わって大町昭和電工の病院に勤めていた。私が松本市にある松本工業高校に入学した前後に姉は体を壊して家で静養していた。この姉は私より七つ年上であった。私が小学校に入った頃に中学を卒業し勤めのため家を離れて行った。
忍耐深くがんばり屋で、私は姉たちと、左官をしていた父のお陰で本当に貧しい中を高等学校に通わせて頂いた。
貧しいといえば中学の時に買ったオーバーが高校の時小さくて着られなくなってしまった。姉に頼んでも余裕がなく買えずオーバーの一番下の裾に二十センチ位の厚地の布を継ぎ足してもらって三年間を過ごした。
生家は、北安曇郡平村野口新屋、(現在、大町市)今日では観光でさわがれている「あずみ野」である。実家から九キロも行くと葛温泉、四キロで木崎湖に至る。北アルプスが一望できる大町は、すばらしい故郷である。
坂本弁護士の子どもが埋められた場所も、実家から近い。小学校の頃に、きのこや、わらびを採りに行った山に可愛い子どもが葬られたのだ。
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