それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。(ヨハネ19:35)
イエスが私たちに望んでいることは、復活のイエスを信じて信仰による平安を得ることです。神であるキリストは、私たちの罪を負って十字架刑で死に、復活して天に昇るためにこの地に生まれてきてくれました。ここに、神の愛と人類救済計画があります。
12使徒の一人であるヨハネは、罪のないキリストが十字架刑という極刑にかかり、息絶えるまでの行程を見届けて証ししてくれています。キリストは天地の創造主である神なのに、神を冒涜(ぼうとく)した罪で死なれました。そして、キリストはご自身に罪を持っていなかったので、私たちの犯した罪を背負って、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、死に、血と水を流されました。
国境を越え、全世界の神であるイエス・キリストを自分の救い主だと信じて告白するなら、救われて、死んでも神の御国へ行くことができます。神が人類に与えてくれた聖書の言葉は、創造主である神、キリストご自身の言葉であり、私たちの霊の糧となるいのちのパンとして、無料でもらうことができます。
「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです」(ヘブル6:17)
神の言葉は生きて働き、その言葉を信じた信仰の通りになります。ですから、神の言葉を信じた信仰の分だけ神の奇跡を体験することができます。
私たちにとって必要な方は、聖書を通して、愛をもって私たちを正しく導き、正しく取り扱い、私たちの良いところも悪いところも正しく評価してくださり、私たちに約束の御国を相続させてくださいます。そのお方がイエス・キリストです。天の御国で父なる神の右に着座して、大祭司として御国を統治されており、神に近づく私たちを御国に入れてくださる救い主です。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(ヘブル11:13〜16)
この地上では、私たちは旅人であり、寄留者です。
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」(1ペテロ2:11)
私たちの国籍は天にあります(ピリピ3:20)。今の地上での生活は、荒野での天幕生活と同じであり、目に見える全てのものは消え去ります。永遠に変わらない御国への希望を持ち、地上での幕屋生活をしていく者でありたいです。
キリストにある希望は、失望に終わることがありません。聖書にある約束は必ず実現すると信じる信仰と、忍耐が試されています。神の時が来れば、その全能の御力によって失望は希望に変わります。そして神は、私たちに御霊の実が実っているかどうかを見ておられます。私たちが天に持っていけるのは、信仰によって天に積まれた宝と、御霊によって結んだ実だけです。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22〜23)
「私たちの齢(よわい)は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです」(詩篇90:10)
この地上は、試練と苦難の場所として設けられており、その誇りとするところは労苦と苦難ではありますが、それを信仰でどうやって乗り越えて御霊の実を結んだかを神は見ておられます。神を賛美して祈り、礼拝し、全ての栄光をキリストにお返しする人生を選択する者でありたいです。
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