毎月、各方面で活躍するクリスチャンを招き、講演会を行う「インターナショナルVIPクラブ船橋」。今月は9日に、キリスト新聞社が発行する季刊誌『Ministry』の編集長、松谷信司氏が講演を行った。テーマは「キリスト教『にわかファン』問題を考える」。
松谷氏は、熱心なクリスチャンの両親のもとで生まれ育った。伯父、双子の兄は牧師といういわゆる「クリスチャンファミリー」の中にあって、自身の子どもたちは「片クリ子」。松谷氏によると、両親のうちどちらかがクリスチャンの子どもをこう呼ぶのだという。
埼玉県の大学を卒業後、テレビ制作会社に入社。1度目の転職で都内の私立小学校の教員に。5年勤めた後、キリスト新聞社に入社。現在は、各地で精力的に講演会を行うほか、超教派で行う祭り「いのフェス」なども開催。今春には、ポプラ社から『キリスト教のリアル』を出版した。
講演は、一般メディアがどのようにキリスト教を取り上げてきたかを時系列で示すことから始まった。2010年には、雑誌『Pen』(CCCメディアハウス)でキリスト教が特集され、同号は人気のあまり完売に。『Pen』の歴史上、記憶に残る特集となった。
その後、数々の雑誌でキリスト教が特集された。時を同じくして、多くの若者の間で漫画『聖☆おにいさん』が話題になり始めた。2011年の東日本大震災直後には、講談社から『ふしぎなキリスト教』が出版され、30万部以上売り上げた。
2013年には、ノンクリスチャンの八木谷涼子さんが全国の100以上の教会を巡って書いた『もっと教会を行きやすくする本―「新来者」から日本のキリスト教界へ』が出版された。
そうした流れの中、NHK朝のテレビ小説の中で村岡花子、広岡浅子が、大河ドラマでも黒田官兵衛が取り上げられるなど、現在に至るまで一般メディアの中にも多くキリスト教が取り上げられてきた。
「しかし、キリスト教の信者が増えたのか・・・といったら、増えているわけではない。依然、国民の1パーセント未満であることに変わりはない。しかし、注目すべきは、若者の中で宗教的なものを信じる割合は3割を超えているということ。私の関心事は、クリスチャン人口が1パーセント未満という現実と、この3割という数字とのギャップはどこにあるのか」だと松谷氏は話した。
では、「にわかファン」とは何か。この言葉が多く使われたのは、スポーツファンの間だった。とりわけ、サッカーファンの中で、サッカーのルールなどもあまりよく知らず、今までサッカーの試合に見向きもしなかった人々が、日本のナショナルチームの台頭によっていわゆる「にわかに」サッカーに興味を持ち、「エンターテイメント」的に楽しみ始めた。こうしたファンのことを「にわかファン」と呼び、それまでいた熱狂的なファンからは、少々煙たがられたのだという。
しかし、サッカー界では、「グラスルーツ(草の根)サッカー」を提唱し、サッカーはどこでも誰でも皆が関わってプレーするとした。この「グラスルーツ」なくして代表の強化はないとし、トップレベルのサッカーを支えるものとして位置付けた。
松谷氏は、キリスト教における「にわかファン」の特性の1つに、「押しつけとプロパガンダ」を嫌うことを挙げた。歴史上のキリスト教徒たちが、偉人伝としてドラマや本を通して伝えられ、それらが爆発的なヒットを生み出しているにもかかわらず、信徒は相変わらず人口の1パーセント未満という現状があるのは、「キリスト教は信じていないが、知りたいだけ」といった層が多くいることではないかと説明した。
もともと、日本人は、「偏り」や「所属」することに過剰な反応を示し、「中道」「無所属」「無党派志向」を好む。「何かを問われること」を嫌うというのだ。
これに対し、教会が今まで行ってきた「にわかファン」への犯しがちな対応があるという。それは「礼拝に来れば分かる」「真理はいずれ伝わる」といった自己陶酔型の対応だ。
そもそも彼らは、礼拝に来ることを目的としているわけではなく、ただ「知りたい」だけなのだ。しかし、熱心な信徒、教会であればあるほど「伝道」しようとしたり「洗礼」へ導こうとしたりする。そうした対応をすると、彼らは即座に「知りたい」という欲望を引っ込めて、教会から遠のいていく。
「独りよがりの言葉を羅列したり、相手に合わせた言葉選びがされていない場合、どんなに良いものでも、相手の理解が得られない場合は、それは『独りよがり』にすぎない」というのだ。
教会の玄関などに掲げてある説教題を例えとして、「よく達筆な文字で書かれた説教題が教会に掲げられているが、その題名を見ていると、信仰のない人、聖書を読んだことのない人には、非常に分かりにくいと感じる。その文字が通りすがりの一般の人にとっては、『これは私に対する言葉ではないな』と感じるのではないか」と話した。
「教会=真面目=正しい」「俗世=不真面目=正しくない」の二元論で教会はものを語っているのではないだろうかと松谷氏は指摘する。「例えば、教会で礼拝をすること、聖書を読むことだけが正しくて、いわゆるドラマや本に書いてあるキリスト教、または世間で祝うクリスマスなんて全くのデタラメだと切り捨ててしまうことを私たちはやってしまいがち。聖書は、そもそも面白いもの。面白くて正しいこともあるのでは。礼拝や聖書を読むことは修行ではない。もし、礼拝がつまらないと感じている人がいるとすれば、それを我慢して耐え忍ぶことが信仰ではないのではないか」と話した。
教会のホームページに関して、例えば「Q&A」ページを設けているものも多いが、「アーメンの意味は何ですか?」とか「聖書ってどんな本ですか?」といった質問に対して、聖書の用語を使ったような説明をしている教会も多い。
「もしかしたら、初めて教会に来る人にとって必要な『Q&A』とは、『教会に駐車場はあるか』とか『持ち物は何か』とか『献金の相場はだいたいいくらくらいか』とか、そういったことなのではないかと、今一度考えてみることが必要」と話す。
また、キリスト教徒が一般的に使用する用語は「御霊」「御言葉」「贖(あがな)い」「罪(原罪としての)」「預言」など数多くある。これらを翻訳して伝えているかなども、私たちが1人でも多くの人を救いに導くための重要な努めであるといえると松谷氏は語った。
最後にこうした「にわかファン」に対しての「トリセツ(取り扱い説明書)」として、「信じたい」ではなく「知りたい」に応える説明責任が教会として必要だということ、「間口は広く、敷居は低く、奥行きは深く」が必要なのではと話した。
「本質を下げるという意味ではなく、『知りたい』といった欲求を大切にしながらも、教会側に考えを一気に寄せるのではなく、なだらかに歩み寄ることが必要。そうすることによって、裾野が広がり、少しずつそこから受洗者が起こされ、信徒の数も増えてくるのでは」と松谷氏は説明し、聖書から「第一コリント信徒への手紙」9章20節から23節をこれからの教会の目指すべき姿として話した。
「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」