週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネ20:1)
最近では、天災や人災などによる死、高齢や持病による突然死、または超過死亡数の激増がちまたで騒がれるようになりました。生きることと死ぬことについていろいろと考えて生活する時代がついに来たと思います。
「生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1:21)。これが、聖書のいう生死観です。生きるにしても死ぬにしても、キリストの栄光を表す信仰があれば幸いであり、もしも私たちが信仰により殉教できるなら、天の御国に入れるので、それも益となります。
御国に入るとは、キリストの死からの復活と関係しています。信仰者は死んで終わりではないという神のご計画を、聖書は啓示しています。たとえ死んでも天の御国で永遠に生きることができるという神との約束です。
イエスが十字架刑で死に、墓に葬られたとき、男の弟子たちは落胆した上に、ローマ兵に殺されるのを恐れて身を隠していました。しかし、弟子である女性マグダラのマリアは、ローマ兵に見つかると殺されるという恐れよりも、イエスを慕い思う愛によって死ぬことを恐れず、イエスの墓に行き、死んで3日目によみがえられたイエスを一番先に目撃する祝福を受けました。そこで彼女は、死で終わらないという死からの復活と希望を目撃したのです。
「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブル10:39)
イエスはとても悲惨な十字架刑で死にましたが、それは天の父なる神の御心にかなったご計画でした。父なる神は、私たち人類の罪を赦(ゆる)すため、罪を持っていない神の御子イエスに私たちの罪を負わせ、イエスは私たちの罪の身代わりとなって十字架という極刑で死なれました。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)
イエスは死なれました。しかし、彼には罪がなかったので死のハデスから吐き出され、よみがえりました。死から復活し、命の救いを完成されました。
罪を持つ私たちは皆、死んだら天の御国に入れず、地に下るという永遠の死を待つしかありませんでした。しかし御子イエスを信じる者は、御子イエスと同じように、死んで終わることはありません。この地上を去ったときには、天の御国に入るのです。そこで神と永遠の時間を過ごし、永らえます。私たちの希望は御国にあるのです。
イエス・キリストの犠牲の愛と救いに感謝します。
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