ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。(ヨハネ19:19)
私たちには肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などの「肉の性質」があります。私たちは自分の感情に支配され、自己中心に行動し、罪の中にいます。聖書には、罪を持ったままでは天の御国に入れないと記されています。
私たちは人生のさまざまな場面で、自分で判断し、物事を選択していきますが、神が私たちに望んでおられることは何でしょうか。私たちの救いに関する重要な秘訣が聖書に記されています。おのおのの行いと言葉は、必ず報いを受け取ることになるのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)
ですから私たちは、罪を持ったままでは神の統治される天の御国に入れません。神の国は、罪のない聖なる国だからです。
では、救われるためにはどうしたらよいのでしょうか。神の御言葉を聞いて自分の罪を悔い改め、神に従う者へと変えられることです。そうすることで、神に祝福された命豊かな人生へと変えられていきます。
天地の創造主である神イエスを自分の主と信じ、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによる聖霊のバプテスマを受けることにより、魂が滅ぶことなく、天の御国に入れていただけます。
「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」(ローマ2:12)
聖書には、神の律法に違反した私たちの罪を贖(あがな)うために、イエス・キリストが十字架刑で死なれたと記されています。
イエスの十字架刑での罪状は「神を冒瀆(ぼうとく)した罪」です。罪のない神イエスが、神を冒瀆したとされ、十字架という極刑を受けました。本来なら、神を冒瀆した私たちこそ、その罪状で苦しみ、処罰されるはずでした。私たちの罪の身代わりにイエスは、恥と苦しみと死を負ってくださいました。
ここに神の愛があります。イエスが負った十字架刑という苦しみは、私たちの罪の贖いだったのです。この神の愛に心を開き、自分の罪を告白して悔い改めることです。神が私たちに望んでおられるのは、不信仰と偶像崇拝による不義を避け、聖書にあるキリストの命の言葉を握り、地の塩、世の光として輝くことです。そして神に栄光を返す人生へと変えられていき、栄光から栄光へと神の似姿に変えられていくことです。
私たちは神の祝福を受け、永遠の命を頂き、御国で永遠に神と共に永らえるのです。
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