夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(新約聖書・マタイによる福音書27章1〜5節)
パニックとは何か
パニックは得てして起こるものです。冒頭の聖書のテキストからは、師匠であるイエスを裏切ったユダの苦悩や心の痛みを見ることができます。ユダは、自分がイエスを売り渡したという事実の前にパニックを起こし、自ら命を絶ってしまいます。これは非常に大きなパニックだといえます。しかし、私たちの実生活で起こるパニックは、そんなに大変なものではありません。好き好んでパニックになる人はいないでしょうが、想定のない人にとっては、パニックは日常茶飯事です。
パニックを収めるのは簡単です。やるべきことが示されれば治るのです。しかし、それが重なると、最終的に突拍子もない言動に出てしまうのです。
パニックと聞くと、「奇声を上げて暴れ回るような状態」を思い浮かべる人が多いと思います。しかし、児童福祉の支援現場では、その前の段階をパニックと考えます。この連載の第7回で「泣く」という行為について考えましたが、泣いたり、騒いだり、奇声を上げて暴れ回ったりする行動は、パニックの結果として出現すると考えます。そして多くの場合、その頃にはパニックは実は解消されているのです。
パニックとは「頭の中が真っ白な状態」
児童福祉の支援現場では、パニックかどうかは頭の中の状態で判断します。「何をしていいのか分からず、頭の中が真っ白な状態」をパニックと定義するのです。そして、それが最も危険な状態なのです。ユダを例にとって考えると、ユダがイエスを裏切ろうと思ったとき、すでに「頭の中が真っ白な状態」だったのだと考えたらどうでしょうか。
ネットで拾った小話が面白かったので紹介します。
旅客機に乗客が乗り込み、しばらくしても出発しようとしなかった。1時間もしたころ、機内アナウンスが流れた。「こちらは機長です。本機はエンジンにトラブルが見つかりましたので、離陸は中止いたします」。それを聞いた乗客は、散々待たされたイライラもあり、口々に「ふざけるな!」と叫んだ。やがて再び機内アナウンスがあった。「じゃあ、飛びます」。機内は大パニックになった。
これではパニックになりますね。細かく解析すると、待たされ続けた挙句、離陸の中止が告げられたのですから、乗客は怒り心頭です。乗客は、怒りを表現することで、その怒りを解決しようとしているのです。この時の乗客の頭の中は、ちょっとしたパニック状態です。しかし、注目したいのは、「じゃあ、飛びます」と言った機長の方です。俗に言う「逆ギレ」ですが、機長も正真正銘のパニックなのです。パニックによって、「飛べばいいんでしょ、飛べば!」と、自暴自棄になっているのです。それを知ったので、乗客は正真正銘のパニックになったのです。
虐待はパニックの結果?
この小話は深く洞察することができます。機長のパニックは、エンジンにトラブルが見つかったという報告を受けたときから始まっています。頭が真っ白になり、修理が可能かどうか判明するまで何もできなくなったのでしょう。それで、何のアナウンスをすることもなく乗客を1時間も待たせてしまったのです。
整備士が一生懸命トラブルを解消するための努力をしても、ダメだったという結果を受けて、機長はやっと「離陸は中止いたします」とアナウンスします。すると、乗客は激怒しました。機長は「分かってくれるだろう」と勝手に思い込んでいたので、さらにパニックになり、もはや「じゃあ、飛びます」と言わざるを得なくなったのです。
このメカニズムは、虐待のメカニズムに似通っています。虐待をしてしまう人は、最初の一歩でつまずいてしまのです。そして虐待は、その人が現状を把握できない状態の中で、予想外の反応があったとき、それがきっかけとなって起こります。
保育職や保護者の相談に乗っていると、「どうして分かってくれないの?」とか「どうしてできないの?」という言葉が出てきます。これらは、子どもたちの言動につまずいているから出てくる言葉であり、虐待につながる可能性のあるサインでもあるのです。
「前提のズレ」から生まれる虐待
この連載ではこれまで、大人が理解していることと、乳幼児の現実にはズレがあることについて観察し、考え、その方策を探ってきました。虐待はこのズレ、つまり前提が間違っているために起こるといえます。私たちは、虐待事件が報道されるたびに、「なぜ?」「どうして?」と、一方的に批難しがちです。しかし、この「前提のズレ」に一旦はまり込んでしまうと、抜け出すのは難しいと言わざるを得ません。逆に言えば、この「前提のズレ」を適宜修正できればよいのです。しかし、前提はそうは簡単に修正できないのです。
前提は前に提示されるから前提
前提は、前に提示されているからこそ前提です。しかし一方で、その前提は得てして間違った教育や思い込み、理想、願望、常識などに支配されやすいものです。そして、この間違った前提に従って動くことも問題ですが、それすらもない場合はもっと悲劇的です。
前提は、前に示されているから前提であるはずなのですが、最近では「後出し」のような場合も多く見られるようになってきました。それが顕著に表れているのが、「こんなはずじゃない」という言葉です。勝手な理想や願望、常識などを振りかざし、過去にさかのぼって否定することになります。「お兄(姉)ちゃんは〜だった」「昔は〜だった」「自分が子どもの頃は〜だった」と言い出す場面も多く見受けられますが、これらも同じです。
「後出し前提」が広がる世の中
まだ個人のレベルなら修正できるかもしれませんが、残念ながら私の見たところでは、世の中が等しく「後出し前提」の状態になっている気がしています。この連載の第14回でも書きましたが、教育も、保育も、子育ても、それに主体的に関わる大人の側の「潔癖化」が進んでいます。「無邪気な邪悪さ」を持つリアルな子どもに向き合う備えができていないのです。
そんな人たちが、教育や保育、子育てを行うとどのようになるかは推して知るべしです。勝手な理想、勝手な思いを子どもたちにぶつけるのが、教育や保育、子育てになってしまいます。そして、その最たる人が、保育施設の経営者だと、もはや目も当てられないという体験を幾度かしたことを覚えています。
ドクトリンの必要性
最近、ドクトリンという言葉を耳にしたことがある人もいるかもしれません。ドクトリンとは、もともとは「教理」「教え」という意味の宗教用語で、原義は「前提とするもの」です。例えば、キリスト教では「唯一全知全能の神がいて、イエスが神のひとり子である」という概念があり、それが一つの前提となっています。これが今では、「政治、外交、軍事などにおける基本原則」という意味で使われるようになりました。
教育や保育、子育てにおいては「目標や方針を裏付けるために前提とする理念」ということになります。宗教はもちろん、政治や外交、軍事において、このドクトリンは非常に大切なものですが、教育や保育、子育てにおいてもやはり大切なものです。しかしながら、現在の保育界は、このドクトリンが希薄なものとして扱われていると言わざるを得ません。これでは、世の中等しくパニック状態であっても不思議ではありません。(続く)
◇