2月末にロシアが軍事侵攻して以降、民間人を含め多くの死傷者が出、いまだに停戦の兆しが見えないウクライナ。神戸国際支縁機構の海外部門である「カヨ子基金」は、その戦時下のウクライナで孤児の家「カヨコ・チルドレン・ホーム」の建設を進めています。8月上旬に2回目となる現地視察をしてきたカヨ子基金の佐々木美和代表によるレポート(全4回)の第1回を届けします。
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2月24日、ロシアがウクライナへの攻撃を開始した。4月25日、神戸国際支縁機構とカヨ子基金は、「ウクライナ和平宣言文」共同コミュニケを発信。ロシア・ウクライナ間の戦争は、開戦よりすでに6カ月がたつ現在も停戦・終戦が見えない。第1次ウクライナ・ボランティア(5月28日~6月13日)で感じたウクライナは、老いも若きも苦しみながら、戦勝を渇望する空気だった。
なぜ向かうのか
第2次ウクライナ・ボランティア(8月3〜12日)渡航前、「8月24日まで、来ないで」と、オクサナ・クリシャンさん1にアドバイスされる。ウクライナの独立記念日である8月24日を前に、ロシア側からの攻撃が激しくなること、命の危険を伴うことを予測した助言だった。それでもボランティアに向かわせていただいた。「最も小さくされた者」(マタイ25:40)とは誰か。第2次ウクライナ・ボランティアの目的は孤児の家建設である。
帰国後には、カメラマンのブラッド・ダルコフリフェさん2から、独立記念日の写真が送られてきた(写真1)。同時期、ブラッドさんは前線に出た後、負傷したという。ボランティアは美談ではない。お人好しのボランティアでは務まらない極度の緊張もある。空襲警報を滞在中に何度も耳にした。女性ならではのハンディもある。戦禍にあるウクライナで孤児の家を建設するなど、果たして誰が信頼し、手を携えてくれるだろう。
ウクライナに来る前、何の特技や取りえもない自分に、孤児に寄り添い、命を捨てられるか疑問が迫った。「ボランティア中に死ねれば本望」と、口先ではいくらでも言えるだろう。単独渡航すら初めてのことである。独りで大海原に放り出されたような心細さだ。爆撃がとめどなく続く現地でどうなるだろうかと考える。飛行機の機内食も砂をかんでいるようだった。しかしその現地に、日本と変わらない人々の生活があり、孤児たちがいるのだ。
神戸から東京、そしてポーランドへ
8月2日、神戸から深夜バスで東京に向かった(写真2)。孤児の家建設へ向けて、今回の渡航では3つの具体な目的があった。1)孤児たちの世話をする地元住民と会うこと、2)孤児の家として使う建物を提供する意思がある住民に会い、施設の見学を行うこと、3)首都キーウ市の国際課および児童課の担当者と面会すること――である。
8月3日の朝、東京駅に到着。神戸国際支縁機構にハイエースを寄付してくださった玉の肌石鹸(せっけん)の三木晴雄会長の元へ向かった。出国前に人生訓を仰いだ。人の欲のうち「支配欲」が最も厄介だという。あいさつ後、電車で成田空港駅に到着。ゲートの開門まで時間があったため、荷物の整理にいそしんだ。費用対効果の高いチケットは、それだけ荷物の個数制限、重量制限がある。
ポーランドのワルシャワ・ショパン空港には8月4日に到着。その足で、長距離バスのチケット販売場へ向かった。第1次ウクライナ・ボランティアと同様に、ポーランド経由でウクライナに入る。ワルシャワ駅には西、中央、東の3つの駅があり、長距離バスのチケットは西駅で購入する。西駅の地下には、第1次ウクライナ・ボランティアで親切にしてくれたベトナム人のチン・シンさん(55)が営む小売店がある。また同じ駅で、アレクセイ・ブラバンさんとレオニード・ブラバン名誉教授と出会った。ブラバン教授は今回、キーウよりもさらに東の生まれ故郷ポルタバの学術会議に参加されているとのことだった。顔見知りの不在は、第1次ウクライナ・ボランティアで築かれた縁が絶たれたようで、孤独感に拍車がかかった。
ボランティアは美談ではない。大切なのはむしろ、何かを〈する〉のではなく、相手に耳を傾け〈聞く〉ことである。これは、第1次ウクライナ・ボランティアでも感じたことだ3。田中正造という人がいる。公害に声を挙げた。田中は当初、正義感に満ち、変革を志し、公害に苦しむ谷中(やなか)の民の中に入っていった。田中は「指導する側」として、谷中の民を「保護される側」として鼓舞しようとした。その後、田中は指導することをやめ、むしろ谷中の民に導かれていった。田中は谷中の民の中に神を見た。苦しむ民の中に神は顕現する4。神は高みにいるのではなく、私たちの近くに、低みにいる。ボランティアに赴くのは、共に苦しむ縁、「共苦縁」のためともいえるだろうか。理屈ではない。死ぬのが怖くないといえばうそになる。ただウクライナにいる孤児たちに会いたかった。
長距離バスでウクライナへ帰る避難民
ワルシャワ・ショパン空港からワルシャワ西駅に到着。大きな駅に一人で降り立つ。前回同様、大きな荷物を持ち、小さな子どもたちを連れた人々が窓口の前に並んでいた。見渡す限りの人が、ウクライナから来たところか、ウクライナへ向かうところだ。筆者は緊張しながら長距離バスの列に並んだ。列の前には子どもたちが遊んでいた。
避難先でウクライナ人の子どもたちが多大なストレスにさらされている(中外日報8月10日付)。戦禍のため、夫から離れた避難生活が長引く中、母親は子どもを一人で抱え、心身の疲労や夫婦間の距離が生じ、家庭が崩壊する場合もある(8月14日聞き取り)。列のそばでまんじりと私を見ながらも、視線を合わせることなく警戒する子どもたち。その暗い顔から、避難先のワルシャワで苦労している様子がうかがえた。
バス出発時刻の午後6時30分間近になっても列はなかなか進まない。子どもたちが近くまでやってきた。筆者と目が合い、ほほえみかけると、はにかんでいた。そこで、日本からのお土産として持ってきたこいのぼりの旗を見せた。女の子はすぐに手を伸ばした。こいのぼりに目線がくぎ付けになる。気に入ったのか、しっかりと握りしめていた。出発時刻まであと5分しかない状況だったが、担当者は信じられない速さでウクライナ行きのチケットを発行してくれた。
治療のため戦時下の母国に渡る若者たち
ウクライナへ向かうバス車内は文字通り満席だった。長距離バスはだいたい36~40人が定員と書かれているのを目にする。今回は、優に40人は乗っていそうだった。前回は、アジア系ユダヤ人が乗っていた。しかし今回は見渡す限り、車内には筆者以外にアジア人はいなかった。国境手前で今回もパスポートが集められた。皆、ウクライナ国籍である。まじまじと筆者を見る乗客たちと目線が度々合った。隣の席になったドミトロ・マクフレリク君(10)はポーランドへ避難していた。避難先で身に着けた気遣いだろう。ドミトロ君は、筆者を眺めることもなく、礼儀正しく会話をしてくれた。父親とは生活していない。親子3人で激しい爆撃のあった中部ジトーミルへ戻るのだという。
通路を挟んだ向かいのヤナ・オブラソワさん(30)が話しかけてくれた。筆者と同様に、キーウのバスセンターに向かうという。歳が近いせいか、仲良くなった。アジア人が何をしているのかと、バスの乗客たちが筆者のことをしきりにヤナさんに尋ねるという。ヤナさんは北部チェルニーヒウ出身である。21歳の頃、母親とカナダに移り住んだ。手術を受けにキーウに向かう。ヤナさんの手術は、カナダでは来年まで受けられない。それに引き換え、ウクライナでは数日で受けられる。ヤナさんは意を決し、はるばる手術を受けるためだけに、戦時下のウクライナに渡航してきたのだった。
医療技術の関係で渡航するケースを聞くのは初めてではない。第1次ウクライナ・ボランティアでも、行きのバスにウクライナの病院へ向かう10代の少年が乗っていた(6月1日聞き取り)。医学的利益のために、ウクライナの敵国ロシアを訪れるイタリア在住の青年もいる(8月11日聞き取り)。(続く)
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カヨ子基金では、ウクライナに孤児の家「カヨコ・チルドレン・ホーム」を建設するための寄付を募っています。寄付は、郵便振替(記号:14340、番号:96549731、加入者名:カヨ子基金)で受け付けています。また、ウクライナの他、自然災害などで親を失ったネパールやバヌアツ、ベトナムの孤児たちの教育費などを毎月1口3千円から定額で支援する「里親」の募集も行っています。詳しくは、カヨ子基金のホームページを。問い合わせは、電話(078・782・9697)、メール([email protected])で。