2月末にロシアが軍事侵攻して以降、民間人を含め多くの死傷者が出、いまだに停戦の兆しが見えないウクライナ。神戸国際支縁機構の海外部門である「カヨ子基金」は、その戦時下のウクライナで孤児の家「カヨコ・チルドレン・ホーム」の建設を進めています。8月上旬に2回目となる現地視察をしてきたカヨ子基金の佐々木美和代表によるレポート(全4回)の第2回を届けします。(第1回はこちら)
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「平和」より「戦勝」の願いが色濃いキーウ
キーウに到着した翌日の8月6日、ヤナさんと昼食を共にすることになった。キーウ中心街で会うこととなった。昼食への道すがら、街の中心部では色とりどりの花を売る人たち、花を買う人たちが目に入る(写真3)。戦時下と言われなければ、ポーランドの古都クラクフと情景は酷似していた。外部者に見分けは難しいだろう。第1次ウクライナ・ボランティアでも見かけたように、きらびやかな外観とは対照的に、土嚢(どのう)や鉄塊が置かれていた(写真4)。
ウクライナ国内は、「平和」よりも「戦勝」を願う色が強く感じられる。大人だけでなく子どもにもそうした思いが満ちている。第1次ウクライナ・ボランティアで感じた印象は、それから約2カ月たった今回の訪問でも変わっていなかった1。
中心街では、機能不全家族の子どもたちの姿を通りで見かけることがある。第1次ウクライナ・ボランティアでも市民が述べていた。時折ポツンと孤独に座る子どもの姿がある(写真5)。たいていはすぐにどこかへ行ってしまう。
キーウの独立広場でヤナさんと再会した(写真6)2。広場で英国なまりの英語が耳に入った。カメラを下げた男女2人組が歩いている。話しかけた。ジュリア・フランセスクさん(32)とブーディ・ジィムシティさん(36)は、ジャーナリズムの写真撮影のため、車で英国からやって来たという(写真7)。
「死んでもいい」と話す祖国の人々
ジュリアさんは英国在住だが、ウクライナ出身である。爆撃の激しい郊外の叔母たちを心配し、訪問したばかりだった。ところが「このドニエプル川がある地で死んでもいい」と叔母たちに言われたという。ジュリアさんは、そのような言葉は聞きたくない思いだったと筆者に吐露し、話しながら、スマートフォンに保存していた叔母たちの家の室内の様子を撮影した映像を見せてくれた。部屋は大きく破損し、明らかに継ぎはぎを当てているのが画質の悪い映像からも見て取れた。屋根はさらにひどかった。2019年に台風15号、19号が襲った千葉県の南房総布良(めら)の家々のように、屋根が丸ごと吹き飛ばされていた。ブルーシートよりもさらに質素な、ペラペラのプラスチックのシートをかぶせ、雨風を防いでいた。
ヤナさんも同様に、激しい爆撃のあったチェルニーヒウまで祖父母を訪ねた。ヤナさんは祖父母にウクライナから逃げてほしいと考えているものの、年配女性がウクライナからの避難途中に命を落とした話を聞いたことがあった。祖父母は現在まで、死ぬ覚悟でチェルニーヒウにとどまっている。
先の2014年の戦争も生き延びたイリナ・プロコレンコさん(63)からは、祖国ウクライナのためならば、命を落とすこともいとわない傾向を見聞きした。
キーウ市の孤児担当者らと面会
8月8日、第1次ウクライナ・ボランティアでもお会いしたキーウ市国際課のブラッド・ニコライエフさん(31)と再会した。筆者と1歳違いである。独身だが、パートナーの女性は既に西部に避難していた。ブラッドさんの母親も同様で、大切な人との離れた暮らしに「まあ、ね」と寂しさを口にし嘆息する。
日本語が堪能なブラッドさんに案内され、家庭・児童課代表のタンチウラ・バレリイさんおよび児童課代表のバレンチーナ・ベゼリナさんと面会した(写真8)。
ブラッドさんは会議室の席に座るやいなや、孤児の状況について開口一番話し始めた。孤児は戦争前からいたが、数が増え、他の地域からも来ており、戦争で多数の死者が出た南部マリウポリからも来ているといった混沌とした状況について語り、「何とかする必要があります」と日本語で訴えた。
戦争開始直後、キーウ市の行政は子どもたちを巡る初めての経験に戸惑った。緊急の保護、特別な必要のある障がいのある子どもたちへの配慮、西側諸国への送還など、「システム」が何も確立されていない中でバレンチーナさんは奔走したという。
戦争勃発直後は活発だった市民ボランティア
一方、行政の証言と対照的な語りを市民は聞かせてくれた。前日8月7日、聖ボロディーミル大聖堂(聖ウラジーミル大聖堂)で、キーウ市の一般ボランティアに出会った(写真9)。教会に通いながらボランティアを継続しているという医師の夫妻に、ボランティアのパブロ・ザクチンさん(45)3を紹介された(写真10)。
市民の印象からも、最初の2、3カ月は行政の体制が整わず、むしろ一般のボランティアが活躍していたという4。戦争勃発直後から、市民の目は、どんな人々が困っており、何が必要で、誰が応答したのかという動きに関心が向けられた。Viber、WhatsApp、Telegram といったSNSが市民の間で駆使され、情報交換が頻繁にされていた。しかし、戦争が始まってから3カ月がたとうとするころには、ボランティアではなく、行政の支援体制が行き渡るようになったという。市民は行政の支援体制を信頼した5。
「システム」が軌道に乗って以降、子どもたちの海外避難、保護、児童福祉施設送還が効果的になされていると市民は信じている6。しかし、同時に市民には「何が起きて、どのように解決しているのか、実際のところを知る術がない」とパブロさんは言う。
パブロさんによれば、行政の支援体制が整い始めてからはボランティアの動きは停滞してしまった。その結果、誰がどんな助けを求め、誰が誰に応答し、助かったのか助からなかったのか、孤児たちの移動の経緯、成果も含め、プロセスは全て見えなくなってしまったという。サイレンが鳴り救急車が動けば、「一つの町全体のサマリア人的態度を破壊し得る」7。助けを必要としている人々に対する市民の感情移入や関心は消え去ってしまう。2月24日のロシア軍侵攻直後、ボランティアは活発で、SNSで情報交換や動きの共有がされていた8。しかし今では、SNSが不活発になった。そうであっても、パブロさんはキーウ郊外の村々を訪れ、戸別訪問などのボランティアを続けている。
行政の支援体制は弊害を生んだ。コミュニケーションの風通しは明らかに悪くなった。まるでベールで覆われているかのようである。孤児についてパブロさんに尋ねると次のような答えが返ってきた。
「今まで経験したことがない新たな課題が生まれている。十分な支援のない郊外の一般家庭に、次々と東部の親戚や家族から子どもたちが避難してきている。ある子どもたちは十分な場所もない親戚の家に送られ、共同生活を余儀なくされている。ある子どもたちはキーウの古い避難所に送り込まれている」
そこでパブロさんが早急に必要だと感じているのは、新たな施設で暮らせる共同キットであり、ホームである。(続く)
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カヨ子基金では、ウクライナに孤児の家「カヨコ・チルドレン・ホーム」を建設するための寄付を募っています。寄付は、郵便振替(記号:14340、番号:96549731、加入者名:カヨ子基金)で受け付けています。また、ウクライナの他、自然災害などで親を失ったネパールやバヌアツ、ベトナムの孤児たちの教育費などを毎月1口3千円から定額で支援する「里親」の募集も行っています。詳しくは、カヨ子基金のホームページを。問い合わせは、電話(078・782・9697)、メール([email protected])で。