今年もクリスマスの時期を迎えました。保育園の園長や教会学校の教師として、長年クリスマスの集いを体験してきた私には、たくさんの懐かしい思い出があります。
純粋な子どもたちの応答にはいつも励まされましたが、それと同時に、私自身の心にも、救い主誕生の感動と喜びが深く刻まれ、日々の生きる力になっていきました。
最近、家族の介護で教会に通えなくなり、クリスマスの集いに参加することも少なくなりましたが、心の内にある感動と喜びを、今年も静かに味わいたいと思います。
神は愛です(ヨハネの手紙一4章16節)
この宇宙の創造主である神様の本質は愛です。神様の愛がこの世界を造りました。神様は、過酷な環境にある広大な宇宙の中に、命があふれる小さな地球を造りました。私たちの命を支えるため、神様の造られた地球の環境は、人知を超えた奇跡のバランスによって維持されています。
神様は創造の御業の最後に、神様の本質である愛を具現化するため、神様の似姿として人を創造されました。人は、愛し、愛されるために造られたのです。
善悪の知識の木
神様は、人にすべての木から思いのまま食べることを許されました。しかしただ一つ、善悪の知識の木からは食べてはいけない、食べると必ず死ぬと言われました。
善悪の知識の木から食べるとは、神様によって備えられた人生を、神様の御旨ではなく、自分の思いのまま善悪を判断して歩むことを意味します。悪魔に誘惑された人は、この木からとって食べてしまったため、霊肉ともに死に定められました。
それ以来、すべての人は死に定められ、神様の御旨から離れ、罪を犯し続けるようになりました。自分が何のために生まれ、どこに向かっているのか、人生の意味さえ分からなくなりました。
神様の約束
しかし、神様は死に定められた人を愛し、救い主を送る約束をくださいました。信仰によって歩んだアブラハムやダビデの子孫に、やがて救い主が生まれ、その方によって罪が赦(ゆる)され、永遠の神の国が実現すると示されたのです。
長い時が流れ、やがて神様の時が訪れました。約束の家系に生まれ、結婚の約束をしていたマリヤとヨセフのもとに天使が現れ、聖霊によってマリヤの胎に神様の独り子(救い主)が宿ったことが告げられました。
救い主はダビデの町(ベツレヘム)で生まれると聖書に預言されていました。確かに彼らの故郷はベツレヘムでしたが、当時はそこから100キロほども離れたナザレという町に住んでいました。
しかし、救い主誕生の直前、ユダヤを治めていたローマの勅令により、すべての人は故郷に帰って、住民登録をすることになりました。身重になっていたマリヤでしたが、ヨセフと共にベツレヘムに向かったのです。そして、彼らがようやくベツレヘムにたどり着いたとき、彼らの泊まる宿はありませんでした。
天地を創造された全能の神様の独り子(救い主)は、その夜生まれました。彼は布にくるまれ、飼い葉桶(家畜の餌を入れる桶)の中に寝かされました。
これらのすべては神様の計画の中にありました。永遠の神の国の王となる救い主の誕生でしたが、お迎えするのにふさわしい準備は、人の側にはありませんでした。
羊飼いたちに知らされた
その夜、救い主誕生の知らせは、当時のユダヤの指導者や聖書学者ではなく、ベツレヘムの郊外で羊の番をしていた貧しい羊飼いたちに知らされました。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章8~14節)
羊飼いたちは、羊の群れをその場に残し、救い主を探すために出掛けました。貧しい彼らでしたが、家畜小屋の飼い葉桶を探すのはむしろ容易だったことでしょう。彼らはついに、天使の告げた救い主を見つけたのです。
世界で初めのクリスマスの夜、布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされた救い主を囲んで、羊飼いたちはマリヤとヨセフとともに、感動と喜びを分かち合ったことでしょう。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカによる福音書2章20節)
この出来事から2千年以上の時が流れました。激動の現代社会に生きる私たちですが、この時期、しばし心を静め、羊飼いたちのように、救い主の誕生を心から喜び、賛美することができますように…。
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