皆さんは月に何冊本を購入されるだろうか。読まなくてもいい。購入するだけの冊数を考えてもらいたい。私は小難しい専門書から最近連載が終わったコミック『進撃の巨人』まで、幅広いレンジで本を購入する。しかし、どの本を買うかは、そのほとんどが「本との出会い」を求めて大型書店に足を運ぶ過程で確定する。つまり最初から「この本を買おう」と思わずに、直感的に本を選ぶことを旨としている。しかし中には特例で、この著者の本なら万難を排して「購入しなければならない」と思わされるときがある。本書の著者、森本あんり氏の新刊がまさにそうである。
同じ新潮社から『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』が発刊されてから早くも6年がたった。その間、森本氏の書籍はほぼ買いそろえている。しかも、森本氏の書籍だけは「購入しよう」と決めて書店へ駆け込むことになる。ご多分に漏れず、本書もそうやって手にした一冊である。
本書のテーマを平たく言えば、「異質な他者との付き合い方」であろうか。副題になっている「共存」という考え方を導き出すために、中世以降の「寛容論」の歴史的変遷を丁寧に詳述し、米国黎明期に活躍したピューリタンたち、そして特にロードアイランド植民地を建設したロジャー・ウィリアムズの半生を物語る内容となっている。
従来のステレオタイプ的「ピューリタン像」ではなく、彼らの世界観、そして特に「良心」という問題に対して、時代的制約の中で、いかに彼らが「新天地アメリカ」で国家を興そうと奮闘したのか、について7章立てで分かりやすく解説している。
随所に散りばめられた「森本節」ともとれるユーモアあふれるエピソードには、思わず笑い声を上げてしまったこと、しばしばであった。単に博覧強記に歴史的ピースを開示するだけでなく、それを見事に要所へはめ込んでいく筆致は、読む者を飽きさせない。ますますファンにさせられてしまう。
さて、本書を一読して考えさせられたのは、何かを「生み出す側」と「生み出された物を利用する側」との相克である。それは、本書の主人公の一人、ロジャー・ウィリアムズの苦悩の変遷を見れば一目瞭然である。「信教の自由」を徹底して説く彼は、ジョン・コトン管理下のニューイングランドでは「文句言い」の問題児であった。そしてその主張が論理的に正鵠(せいこく)を得ていればいるほど、微妙なかじ取りを求められる当時のニューイングランド植民地においては、目障りな存在であった。やがてコトンの堪忍袋の緒が切れ、ウィリアムズは追放となる。しかし運よく、後にロードアイランド州となる土地が与えられ、今度はその地を統治しなければならなくなると、実は「かつての自分」のような存在に悩まされるという展開である。
親の心子知らずというか、やはり人間はその立場になってみないと相手の気持ちは分からないのだろう。しかし、そういった苦悩をそのまま受け入れ、どうしようかと悩むウィリアムズの姿に、その後、彼の主張を継承する一連の流れが相まって、私たちに「寛容」とはどのような状況で生まれ、そしてその具体的な方策はどんな条件下で機能するものなのか、を見て取ることができるのである。
そしてウィリアムズの苦悩は、現代においても何ら変わることはない。特に教会というニッチな世界では、同じ「兄弟姉妹」と言い合いながらも、この「寛容」がうまく機能しない事例によく出くわすことがある。そして多くの人は、ウィリアムズが抱え、悩んでいたことに気付かないまま、平気で「寛容を押し付けるという不寛容」に陥ってしまう。
例えば、牧師が少し管理者としての視点から統制をかけようとすると、「教会に社会の論理を持ち込むなんておかしい」と不満を漏らし、聖書を引用して「愛」や「罪の赦(ゆる)し」、そして「寛容」を訴える信徒は決して少なくない。しかし、そういう不満を訴える人に限って、いざ自分が何かのリーダーや管理的立場を任せられると、今度はその人が最も専制的で支配的なやり方を打ち出す、ということなど日常茶飯事である。
確かに最近では「サーバントリーダーシップ」などという言葉が生まれ、「仕えるリーダー」がもてはやされる。しかし、一般的にはウィリアムズに対するコトンの立場のように、自分たちの寛容さを確立するためには、多少の不寛容を受け入れなければ、集団、社会としての体を為すことは難しい。だからこそ、ウィリアムズは、自らの主張を形にするため葛藤し、苦悩し、そしてコトンにアドバイスを乞うこともしたのだろう。
本書は、ウィリアムズが内憂外患によって苦悩し、それでも自らの主張を(クエーカー教徒以外には)譲らなかったというその紆余曲折を赤裸々に描き出している。ここに信仰者の苦悩、純粋でありたいと願いながらもその手足を汚さざるを得ない者たちの「実態」がある。しかしその苦しみ故に、彼が主張した「寛容」の精神は次世代へ受け継がれていったのである。森本氏はこうウィリアムズを評している。
だがそれでも彼は、自分が是認しないそれらの土着信仰やカトリック信仰に対して、寛容であらねばならないと訴えているのである。どんなに異端的で冒瀆(ぼうとく)的だと思われても、それが彼らの信仰なら、その自由を犯してはならず、剣の力で彼らの信仰を曲げてはならない。ここに、ウィリアムズの寛容理解の真骨頂がある。(222ページ)
私たちは、彼の苦悩の記録を知るべきである。そののたうち回るような葛藤の果てに、彼の主張は歴史の荒波を乗り越えることができたのだから。そして本書は、教会の牧師、または役員を任じられている人には必読の書である。寛容と不寛容がいかに近しいものか、そして寛容的な世界を生み出すために、いかにその間で人は苦悩しなければならないのか。それを知ることで、教会の在り方も大きく変わってくると確信している。
■ 森本あんり著『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(2020年12月、新潮社)
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