セランポールの火災で失われた原稿の1つは、ヒンドゥスターン語新約聖書の初めの部分でした。これを翻訳したのは、若い優秀な宣教師であり言語学者でもあったヘンリー・マーティンでした。彼はそのわずか7年前、1806年にイングランドから到着したばかりでした。世界宣教の歴史の中で、言語習得能力でマーティンの業績に並ぶ者はありません。彼は6年という短期間で、新約聖書のウルドゥー語(ヒンドゥスターニー語)、ペルシャ語、アラビア語の翻訳を完成させたのでした。しかもその間、彼の体は熱帯病に苦しまされ、肺が不治の結核に次第に虫ばまれていくのを押して行ったものでした。
マーティンはこの働きのためには超一流の教育を受けていました。彼はケンブリッジ大学でギリシャ語とヘブライ語を専攻し、ラテン語作文で最優秀賞を受けた後、24歳で大学を卒業しました。彼は「アフリカおよび東洋宣教会」の宣教師として任地に赴く予定でしたが、厳しい財政的な困難に見舞われたことと妹を援助しなければならないことから、東インド会社の軍隊のための従軍牧師としてインドに行くことにしたのでした。
マーティンはカルカッタに着いたとたん、強い衝撃を受けましたが、これは生涯消えることはありませんでした。ぞっとするような金メッキの仏像、巨大な寺院、黄色い僧衣をまとった僧侶。悲しい表情の礼拝者が鐘の音に呼び出されて、グロテスクな神々の前で祈る姿には、マーティンは呆然とするばかりでした。彼は家に次のような手紙を書いています。「私は震えが止まりません。まるで地獄の入り口に立っているような気がします」。しかし、セランポールの宣教活動にとっては、彼は希望の星でした。マーシュマンとケアリはこの若者が彼らの働きにどれほど貴重な宝であるのかをすぐ発見し、働きに加わるように勧めました。しかし、マーティンの心はすでにインドの奥地に向けられており、特にイスラム世界への伝道を目指しておりました。
マーティンのカルカッタにおける説教があまりにも熱情に満ちたものであり、人の罪を悟らせる力に溢れるものでしたので、彼が奥地パトナの新しい任地に行く申し出をしたとき、カルカッタの将校は喜んで許可したようです。しかし、パトナにおいてマーティンが出くわしたのは種々雑多な野武士の集まりでした。兵隊たちは関心を示しませんでしたし、将校は良心的な従軍牧師から干渉されるのをいやがりました。にもかかわらず、無関心と敵意の中にあっても、マーティンの勧めによって1カ月の間に少佐1人と兵士6人がキリストを信じるようになったのです。
従軍牧師の仕事に携わっている時以外は、マーティンは集中して献身的にウルドゥー語を学びました。ほどなくして、その言葉で説教ができるほど上達し、やがて800人以上の会衆を持つに至りました。その地域には強いイスラムの反対があることを考えると、信じられないほどであります。マーティンはヒンドゥスターニー語を学んだだけでは満足しませんでした。彼はペルシャ語を学習し、アラビア語も学ばなければならないと常々言っていました。しかし、言葉の学習に全時間を費やしたわけではありません。家の隣に美しい庭園を準備していたのです。彼は若いリディア・グレンフェル嬢がいつかインドに来て一緒になってくれることを望んでいました。何カ月も彼女に懇願するような手紙を書きました。ついに来た大切な手紙の答えは「ノー」でした。その同じ日、軍医から彼が結核を患っており、それもかなり進行していると告げられたのです。
恋人を失い、健康を失うという二重の滅入るような試練にあっても、彼は意気阻喪(いきそそう)するのではなく、幻を捨てたり、目的を覆(くつがえ)したりはしないで、むしろ仕事に拍車をかけたのです。間もなくペルシャ(現イラク)まで行き、一刻を争うかのようにペルシャ語新約聖書を訳し終え、さらに改訂しました。同じようにアラビア語聖書も完成させました。とはいえ、マーティンは本に囲まれた部屋にこもって仕事をするような人ではありませんでした。彼の住んでいたシラズの人々に大胆に、しかも効果的な説教をして素晴らしい結果をもたらしました。そんなわけでイスラム教の律法学者が公開討論会を申し出ましたが、彼はすぐにそれに応じました。口頭による果たし合いを終えた後、イスラム教の神学に照らし合わせてキリスト教の教義を弁明するパンフレットを書きました。
もうあと長く生きられないことを悟ったマーティンは馬に乗ってコンスタンチノープル(現イスタンブール)までの旅を始めました。それは2400キロ離れていましたが、そこから船で英国に帰りたいと願っていました。しかし、トルコのトカトまで行くのがやっとで、そこで1812年10月16日に汚い馬小屋でせき込んだままその生涯を終わりました。宿屋には病気の白人旅行者を泊めてくれる部屋はなかったのです。
ヘンリー・マーティンは6年間で、他の人が60年かかってもなかなかできない仕事をやり遂げました。彼は新約聖書を3カ国の違った言葉に翻訳し終えたのです。すなわちウルドゥー語(1814年、セランポール刊)、ペルシャ語(1815年、ザンクト・ペテルスブルグのロシア聖書協会刊)、アラビア語(1816年、英国内外聖書協会刊)の3カ国語です。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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