「おいおい、どうしたトランプ?」。そんな声が聞こえてきそうな変節ぶりである。この時期にネガティブ・キャンペーンの一環として、過去の言動や私生活に関する新事実が暴露されることはよくあることだ。トランプ氏がかつて卑猥(ひわい)な発言をしたというその証拠が開示され、しかも同じような被害に遭ったという女性が複数メディアに登場してきた。こんなことが許される社会が、米国であり、しかも大統領選である。もちろんこんなことが無い方がいいに決まっているが・・・。
それに対して、トランプ氏がいつもの調子で「だからなんだ?(so what?)」とやり返すことを期待していた者は多くいただろう。しかし、「共和党代表候補」となって以降、やはり国家のかじ取りを行うという立場が現実味を帯びたからだろうか、何と謝罪から全ての演説を始めることになっている。これでは彼の発言のパンチ力は半減されてしまうだろう。大きな体が一回り小さく見えたのは私だけだろうか?
いずれにせよ、第2回目の討論会は確かにひどいものだった。クリントン氏はトランプ氏の性格をけなし、逆にトランプ氏はあろうことか、クリントン氏の夫の情事(モニカ・ルインスキー事件)を持ち出した。ボクシングでいうならクリンチ合戦ということになる。当の本人たちは必死だろうが、見ている者にとっては泥仕合にしか見えない。
先日、米国から来日した南部出身者(福音派)にストレートに聞いてみた。「大統領になるなら、誰がいい?」と。すると別々のところで聞いたにもかかわらず、2人とも同じ答えが返ってきた。「2人ともダメ。イエス・キリストが大統領になってくれないかしら?」
そんな冗談のような本気の叫びを上げていた。それほど両候補は人気がないのだろう。とはいえ、泣いても笑ってもあと2週間! いよいよクライマックスを迎えることになる。
米国における社会主義の歴史と「社会的福音運動」「キリスト教社会主義」
さて、サンダース氏が「民主社会主義者」と称していることは前回述べた。その続きとして、米国における社会主義の歴史を少し見ていこう。そうすることによって、サンダース氏が単なる一過性の存在でないことが分かるだろう。
米国が大きく変わった節目として、南北戦争は1つの「事件」であった。米国人が血で血を洗う争いを起こしたということだけでなく、その後の北部、南部というくくりを生み出したという意味でも、後の米国社会を方向づけたといえよう。
そしてもう1つ、米国内に極端な貧富の差を生み出す契機となったのも、この南北戦争であった。その極端さは常軌を逸していた。人口の10パーセントが、国家の10分の9の富を独占していたのだから。
その結果、人々の道徳性は退廃の一途をたどった。それに対して、従来のピューリタン的キリスト教は人間の罪を指摘することで、個人的な回心を迫った。しかし一方で、このようなやり方では改善が得られないと考える者たちもいた。その代表がワシントン・グラッデンであった。
1875年当時、彼はマサチューセッツ州で会衆派牧師をしていた。そこは一部の経営者が多くの労働者を雇い、劣悪な環境で長時間の労働を強いていた。この状況に耐えきれなくなった低所得者たちは、不正な犯罪行為に手を染めていくこととなった。
グラッデンは、この状況を改善するのに、単に個々人の回心だけでは足りないことを痛感した。道徳的改善を求めるために、まず経済的な改善を成し遂げなければこれは達成できないと考えたのである。そして彼は、個人の罪ではなく、社会の罪、そして社会制度自体の改善を通して人々を救済することを目指し始めたのである。これを「社会的福音運動」と言う。チャールズ・ホプキンスは、この概念を次のように述べている。
「イエスの教えやキリストの救いを個人へ適用するのと同じく、社会、経済、および社会制度にも適用する考え方」
グラッデン~ラウシェンブッシュ~キング牧師に流れる潮流
この概念はやがてウォルター・ラウシェンブッシュを通して有名となり、彼は1917年に『社会的福音の神学』を著している。そしてラウシェンブッシュの著作を愛読書としたのが、公民権運動を導いたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師である。そういった意味では、ピューリタニズムとは異なるが、米国キリスト教信仰のもう1つの潮流と言うことができよう。
やがて1870年代以降、社会的福音の考え方は2つの方向に分岐する。1つはこのような社会全体を改善する働きを教会が担うべきとする方向性。もう1つは、これを教会ではなく、労働組合やストライキなどの社会運動によって世界を改善しようとする流れである。そして後者から1890年代に「キリスト教社会主義」が生み出されていくこととなる。
しかし、ここで断っておかなければならないのは、米国に共産主義は根付かなかったということである。特にマルクス主義に代表される共産主義勢力は、自らの独自性を謳(うた)うのに、従来の宗教性を否定した。それはキリスト教の神を認めないことにつながる。
そのため、米国では共産主義を聖書に登場する「悪魔」と見立てるようになり、これに伴って社会主義もその亜流と見なされる憂き目に遭っている。そのため、米国で「社会主義」という言葉は、一般庶民レベルでは用いられることがあまりなかった。
ところが2016年の大統領選挙では、今までとは様相が異なっている。民主党員1年生であり、ユダヤ系であるサンダース氏が、夫は元大統領、民主党の重鎮であり、前国務長官であるクリントン氏に迫る勢いを持ち出したのである。ここから何が読み取れるだろうか?
19世紀末の社会的福音運動と21世紀の現代の対比
それは19世紀末に生まれた社会的福音運動の経過と、21世紀の現在との対比から見て取ることができる。19世紀末の運動は、その対象が低所得者であり、彼らのために教会や一部の心ある者たちが活動を展開していた。
これに対して当の労働者階級はどう反応していたのか。実は皮肉なことに、彼らはこの社会的福音運動を最も毛嫌いしたのである。理由は、個人の罪より社会全体の罪を大きく取り上げる運動家の言動を、彼ら自身が受け入れられなかったからである。つまり従来のピューリタン的道徳観(聖書に基づき、個々人の回心によって救われる)を踏み越えてまで新しい価値観に傾倒することができなかったのである。
当時は、聖霊による強烈な回心体験を標榜(ひょうぼう)する「ホーリネス運動」と言われる一派がメソジスト派から生み出されていて、彼らの語る「回心体験」が労働者階級の心を捉えていた。そのため、個人の回心をないがしろにして(と彼らには映った)、社会問題を人間の力で解決しようとしている(ように彼らには映った)社会的福音運動家の姿は、自分たちのキリスト教理解から外れた存在と思われてしまったのであった。
この運動は大きな発展を見ることなく、1950年代まで凍結されていた。これを解凍したのがキング牧師である。
しかし2016年、現在はこれとは反対の現象が起こっている。つまり一般大衆がサンダース氏を求め、高齢であり政治家としての経験の少ない彼を押し上げているのである。「民主社会主義者」という用語すら、人々の中に浸透しつつあり、民主党大会では、クリントン氏指名の既定路線にもかかわらず、サンダース氏の支持者が大会会場に詰め寄せてトラブルが発生するほどであったという。
この対照的な姿こそ、米国が大きく変化していることの証左となる。今まで白かったものが黒くなり、黒と思われていたものが白くなりつつあるのである。そういった意味で、サンダース現象はトランプ現象とコインの裏表である、と主張する多くの識者の言葉は、大いにうなずけるものである。
次回は、「トランプ現象」を深く考察した1冊の本を元に書き進めていきたい。
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