キリスト教はパウロがつくったと言えないか。
そういうふうに言う人もいます。
まず何よりも、イエス・キリストその方が来臨し、多くの説教や例え話、癒やしなどの奇跡、そして十字架の犠牲の死と復活の事実があってこそ、パウロの教理も勧めも立てられたのです。そしてイエスの事跡や言行は他の弟子たちの証言で明確に残され、他の弟子たちの協力もあって、多くの教会が立てられたのです。それらなしに、パウロの働きだけではあり得ません。
パウロがつくった、とは人間的な見方です。神がキリストを遣わさなければ、キリスト教はあり得ないではありませんか。キリストの来臨とその言行、十字架の死と復活という事実、この土台の上に、聖霊なる神がパウロや他の弟子たちを励まし、導き、そしてパウロの生い立ち・知識・性格などをうまく用い、他の弟子たちのそれぞれの特性に応じてなされた働きもうまく組み合わせて、神が打ち立てた、というべきでしょう。
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