キリスト教はなじみがないので取っ付きにくい。
キリスト教発祥の地は、オリエント地方の一角、ユダヤです。その土台、旧約聖書の舞台はメソポタミヤであり、エジプトです。しかも、気候は乾燥性、産業は牧畜主体、人種はセム族。
言語はもちろんのこと、風習や社会制度も大きく異なり、文明の中心地ギリシャ、ローマからすれば後進の地、はるか東方の地、そのような外国をめぐる宗教がキリスト教でありました。
このキリスト教が時の世界帝国ローマの中で少しずつ広がり始めて間もなく、ローマ人の風習になじまないなどの理由で迫害されるようになりました。そして、64年の有名なネロの迫害以来、290年ごろのディオクレティアヌス帝の徹底的な弾圧まで、間歇(かんけつ)的ながら実に250年間もそれが続いたのです。
313年のミラノ勅令でやっと信教の自由を得たのでした。それから後は、急速に教会人口が増え、やがて国教にまでなったのです。(それが堕落のもとにさえなりましたが)
中世以来、キリスト教文明の中心にさえなったドイツも、古代はローマ帝国の外側にあって原始的なアニミズム信仰の支配する野蛮な民族でした。この地へキリスト教を伝えようとさまざまな宣教がなされましたが、なかなかうまく行きません。
そうした折、ドイツに派遣されたボニファキウスはあるとき、大森林の奥深い地にあった巨大な檞(かし)を人々が恐れ拝んでいたので、エリヤのようにこれと対決しました。そして彼らの見ている前で切ってしまったのです。
もちろん何事も起こらず、対決に勝利しました。それから宣教が進み、ボニファキウスはドイツ人の使徒と呼ばれるようになりました。
日本に仏教が入ったときも、必ずしも順調というわけではありませんでした。公伝したのが538年と『日本書紀』にありますが、物部尾輿(もののべのおこし)らは仏教が日本古来の宗教でないとの理由で仏教に反対して排仏(はいぶつ)派となり、蘇我稲目(そがいなめ)らの崇仏(すうぶつ)派と長く対立しました。
572年、蘇我馬子(うまこ)が物部守屋(もりや)に武力で勝利して崇仏派が優位になりましたが、なお抗争は続き、聖徳太子が摂政になって、594年“仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)”を発してからようやく安定し、まさに興隆し出したのです。要するに、日本にとって仏教も外来の宗教で、定着するには時間がかかったのです。
キリスト教は前述の通りオリエント(中近東)で興り、聖霊の導きで主に西方に伝えられ、ヨーロッパ各地に広がりました。それからアメリカ大陸へと広がり、ついにアジアにまで及んできています。
どの地域にとってもなじみのない異質の宗教でした。しかし、旧新約聖書に基づくユニークな宗教、目に見えないが普遍的な神を信じ、高い倫理性を持つ宗教として、文明の違いを越えて、徐々に受け入れられてきたのです。
「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」(ローマ10:12)
民族の違い、人種の違い、地域の違い、文化の違いを越えて、全ての人に救いをくださるこの宗教を、なじみがないから、あるいは日本の宗教でないからといって受け入れないのはもったいないことです。
「聖書を読むといいのは分かるが、カタカナの名前、地名が多く、時代背景も無縁のもので、読んでも意味が分からない」という感想をよく聞きます。このような場合、2、3人で読み会をするのがよいと思います。
また、初めから全部分かろうとせず、大体が分かればよいと鷹揚(おうよう)に考えることです。要するに、なじめないといって諦めないことが大切です。
趣味を習うときにも、資格を取るときにも、何でも初めは苦労があるものです。そこを乗り越えると面白さが出てき、先へ進む力が出てきます。聖書と神への道もそうで、なじみにくいところを乗り越えると、ぐっと視界が開け、広い世界が見え、豊かな果実をものにできるのです。
この世の過ぎてゆく面白さ、架空の話よりも、聖書に記録される出来事とそこで示される真理の奇(くす)しさ、含蓄(がんちく)の深さを味わい、永遠の命を獲得しましょう!
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