1. 「景教」の用語
「景教」の用語については、大秦景教流行中国碑(781年建碑)文に出ます。碑文には「景教と称す」とあり、碑文以外に幾つかの経典文書があり、その中の景教と記入されていないものを挙げると次のものです。
『尊経』『一神論』『序聴迷詩所経』『志玄安楽経』の4点です。最初の3点は唐代初期、初代宣教師の阿羅本(あらほん)が長安に入り、太宗皇帝に接見して後、3年間聖書や教理書、賛美歌などを漢訳していくときに、名称を考え、この時はペルシア(波斯)から来たことから波斯(ハシ)教、会堂の名称を波斯胡寺と付け、やがて景教と改称し、大秦寺としました。これらの4点は唐代初期、初代宣教師らが漢訳していく時代の635~640年ごろに作成されたと考えます。
景教の景の字は、日(太陽・日、光)と京(大きい)の合成字から「大きな光」の意味となります。主イエスがご自身を「世の光」と呼ばれ、光であるイエスの教えから景教とはイエスの教えの意味になると考えています。
ちなみに景教はネストリウス派と蔑称されてきましたが、その人物の文字は一切見られず、唐代の景教徒たちはネストリウスという人物を知らなかったのではないかと考えます。彼らは自分たちを碑文末尾に刻んだ「東方の景衆」と名乗っていました。この点も知っていただきたい項目であります。
景教の文字が入った書物には、『大秦景教宣元至本経』『大秦景教宣元本経』『大秦景教大聖通真歸法讃』『景教三威蒙度讃』の4点です。
これらから、景教の文字が入った書物は唐代中期か後期に書かれたと考えます。
2. 聖書について
聖書の漢訳は『尊経』の聖書リストにあるように、ヨハネ、ルカ、マルコ、マタイをそれぞれ「瑜罕難」「蘆伽」「摩矩辭」「明泰」と表記し、詩篇は「多恵(ダビデ)聖王経」、モーセ五書は「牟世法王経」、パウロ書簡は「寶路法王経」などとしています。
旧約聖書は「二四聖法経」とあり、景教碑文にも同様の24、旧法とあり、24はユダヤ教の聖書数に倣っています。今日、日本聖書協会や日本聖書刊行会の旧約聖書は39冊ですが、例えば歴代誌第一、第二を1冊として数えるならそのようになり、唐代に伝わったのは旧約聖書24冊、新約聖書は碑文に「真経二七」とあるように、今日と同じでした。
文字は羊皮紙かパピルス紙にヘブル語、ギリシャ語からシリア語に訳した分冊聖書を持ち、中国に入ると毛筆で紙に書いたものが普及していったと考えます。敦煌で発見の唐代作の『一神論』は、黄色の紙に毛筆を使って写経様式で書いています。
『一神論』の中には「世尊布施論第三」があり、マタイの福音書6、7章の部分漢訳があり、「空の鳥を見よ・・・」などがきれいな筆文字で書かれています。また『序聴迷詩所経』には降誕の記事として「末艶懐後産一男名為移鼠」(マリアは懐妊して一男を産み、名をイエスとつけた)と書かれてあります。他にイエスの洗礼式や十字架と復活の記事もありますが、詳しくは拙著『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』を参照してください。
残念なことに、聖書類は845~850年ごろの武宗皇帝(840~846年在位)による大迫害で焼かれたか埋められたか不明ですが、1冊も発見されていません。もし見つかれば貴重な一級一次資料となります。
(付加として、聖書の用語は明治時代から使われたようで、幕末から1883(明治16)年ごろの新約と旧約は全書と記されていました。現在の台湾の表記は「聖経」、簡体字では「旧新約全書」とあり、景教碑は「真経二七(新約)」、聖書リストをまとめた文書は「尊経」とあります。)
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
『景教のたどった道―東周りのキリスト教』(キリスト新聞社、2005年)
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