アポロ、彼の二面
使徒の働き18章24節~28節
[1]序
今回は18章24節から28節の比較的短い箇所を、18章18節から19章1節に描かれているパウロの動きと比べながら味わいます。
18節以下のパウロの動きは、広範囲に及びます。
コリントからエペソへの移動。エペソを去り、エルサレム訪問。さらにアンテオケに戻り、アンテオケから出発した第2回の宣教旅行(参照・15章36節、16章1節)は終わります。
そして第3回目の宣教旅行が開始され、パウロは、「ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた」(23節)のです。
さらに「奥地を通って」(19章1節)、再びエペソを訪問、そこで宣教活動に専念します。こうした宣教活動を続けながら、ローマ訪問をも望んでいました(ローマ1章10~15節)。
しかし福音宣教は、パウロ一人を通し進められたのではないのです。
例えば今回の箇所で描くアポロがいます。この箇所は、福音宣教が様々な人々により押し進められる事実を、実例を通し明確に伝えています。
アポロはどのような人物でどのような働きをしたのか、24節から28節を中心に二つの面から見て行きます。
[2]アポロの一面
24節で、ルカはアポロを紹介する際、「アレキサンドリヤの生まれ」と明らかにしています。人を紹介する際、出身地を伝えることにより大切なメッセージを伝達できる場合があります。アポロの場合もそうです。
アレキサンドリアは、アレキサンダー大王により紀元前332年に建てられ、使徒の働きが描く一世紀半ばには、ローマ帝国第二の都市になっていました。偉大な大学や図書館を持つ学術都市としてその名が響き、ユダヤ人の間でも学問の中心地の一つになっていました。
アポロはそのアレキサンドリアの出身でした。アポロが「雄弁」(参照・新改訳欄外別訳「学識のある」)で、「聖書に通じていた」と言うとき、それは、言わば本場仕込みでした。
アポロはエペソで、「主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教え」(25節)、「会堂で大胆に話し始め」ていたのです。
またコリントに渡ってからも、聖書に基づいて宣教活動を展開しています(27、28節)。このようにして、すでに存在していたコリントとエペソの教会の間にある交わりを、アポロはさらに一段と深める役割も果たしながら、福音宣教に励んでいた姿を見ます。
[3]アポロのもう一つの面
24節から28節に描かれているアポロの姿には、もう一つの面があります。
それは、「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」(25節)と指摘され、プリスキラとアクラの指導を受ける必要があった点です。
最初アポロを導いた人々は、主イエスの道備えをなしたバプテスマのヨハネの証言だけにとどまっていた人々と推定されます。
アポロはこのような制約を持ちながらも、「霊に燃えて、イエスのことを正確に教えていた」のです。アポロが「会堂で大胆に話し始めた」とき、プリスキラとアクラは、アポロの優れた賜物と福音理解の不足の両方を見抜いたのです。
プリスキラとアクラは、アポロに比較すれば、専門的な訓練を受けていなかったし、人々の前で公然と語る賜物も与えられていなかったと推察されます。しかし福音の中心について十分な理解を持ち、アポロを個人的に招待し、アポロの不足を満たすため神の道を正確に説明したのです(26節)。アポロも自らの福音理解の不十分さをプリスキラとアクラに指摘されると、それを率直に認め、学ぶ態度を取ったのです。アポロの謙遜についても教えられます。
[4]結び
コリントやエペソにおいてパウロの役割は際立ちます。
しかし同時に、初代教会において、数多くのアポロ的人物やプリスキラとアクラのような人物がそれぞれ忠実に使命を果たしていたのも事実です。福音宣教における様々な人々の協力について、パウロがアポロとの関係でコリント教会に書き送っていることば・Ⅰコリント3章6節と7節、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」を注意。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。