恐れを知る
使徒の働き4章32節~5章11節
[1]序
今回は少し長い箇所ですが、使徒の働き4章32節から5章11節までを見て行きます。まず5章1節の「ところが」に注意したいのです。この小さな「ところが」という表現から、4章32~37節の箇所を意識し、それと比べて5章1節からの記事をルカは描いている事実を教えられます。
[2]心を一つにしているエルサレム教会
4章32~37節では、どんな事柄を描いているか、その大筋を見たいのです。
32節に、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして」とあります。これは、24節の「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った」とかかわります。24節から31節に見る通り、エルサレム教会の人々は、神への祈りと神礼拝において、「心を一つにして」いました。
しかしそれだけでなく、32節以下では日常の生活においても、彼らが「心と思いを一つにしている」様子を描いています。その中で、32節から35節まででは、エルサレム教会の全生活におよぶ一致を全体として描き、36節と37節では、特に一人の人物・バルナバに焦点を合わせています。エルサレム教会の人々が日々の生活において、いかに心を一つにしていたかを明らかに示しています。
また5章12節の後半でも、「みなは一つ心になってソロモンの廊にいた」と、エルサレム教会の一致を再び強調し、その様子を12節から16節で伝えています。ですからエルサレム教会が心を一つにしている姿を強調する前後の記事で挟み、それと比べながら5章1~11節の記事をルカは描いているのです。
[3]アナニヤとサッピラ
(1)問題点
アナニヤとサッピラが地所の代金の一部を自分たちのために残しておいたことそれ自体は問題ではなかったのです。この点については、4節に見る、「それはもともとあなたのものであり」とのペテロのことばから明らかです。
4章32節以下に記されているエルサレム教会の生活は、どこまでも自発的になされたもので、私有財産を一切認めず、すべての財産を共同体が管理する固定した制度ではありませんでした。「売ってからもあなたの自由になったのではないか」とペテロが語るように、地所の代金をどのように用いるかアナニヤとサッピラが決定できたのです。
では、何が問題だったのでしょうか。3節のペテロの言葉に注意する必要があります。サタンの誘惑に負け、実際にはそうでないのに、地所の代金の全部を使徒の足元に置くように見せかけてしまったのです(8節)。見せかけに問題があったのです。バルナバが受けた称賛を見て、二人も同じように人々からほめられたいと、そうでないのにそのように見せかけたのでしょう。
アナニヤとサッピラのことばや振る舞いは、ペテロに対するものであるばかりでない。「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と指摘されています。
(2)非常な恐れ
アナニヤとサッピラの経験は、単に二人だけのことではなく、アナニヤのさばきに対しては、「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた」(5節)とルカは記しています。またこの箇所の結び(11節)でも、同じ点を繰り返しています。
この「神に対する敬謙な恐れ」は、教会のなくてならないしるしです。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」(9章31節)
[4]結び
エルサレム教会に求められていることは、真に神を恐れることでした。アナニヤとサッピラの出来事を通して、この点を学んだのです。さばきを受けず放置されているように見えることが、深刻なさばきです。さばきを通して、恐れを知るようにエルサレム教会は導かれています。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。