経済的に人に貢献出来る3つの方法のひとつが消費であるわけだが(あと2つは税金の納入と献金)、消費には重要問題が潜んでいる。自給自足の時代には表面化しなかったが、大量生産・大量消費の時代の到来と共に、資源の乱用、環境破壊、ゴミ処理等の問題が生じて来た。文明の発展は便利さの追求でもあるが、人間はその過程の中で、神の命令の意味を誤解してしまったようだ。人は「地を従えよ」という神からの文化命令に従い、植物も動物も自然資源も支配するようになった。でも環境破壊が現実的になるまで、「従えよ」という動詞の本当の意味に気付かなかった。
神は、天地創造のプロセスの中で、被造物を見ながら「良しと見られた」あるいは「見て良しとされた」と7回も言われた(創世記1:4、10、12、18、21、25、31)。「良い」という表現は、被造物が完璧だったことを意味する。実際この地球は、人が生きていくための全ての条件を揃えている。太陽と地球の距離、自転のスピードと傾き、空気中の酸素と窒素の比率、陸地と海の比率、雲が地球を覆う比率、雪の降る量等、人が生きて行くための無数の条件が整っている。それらのひとつが狂っても生物は生きられない。全ての条件を満たす地球の存在そのものが奇跡的である。大宇宙に存在する星(実際には生物は惑星でしか生きられないが、遠くの惑星は見えないので、星を見て惑星の存在を推測する)の中で、地球と同じ条件を満たす星は発見されていない。たとえどこかに発見されたとしても、光速で何十万年、何百万年もかかる惑星に人が移住するのは不可能である。それで、地球でしか生きられない人間に与えられた唯一のオプションは、「地を従えよ」という神の命令に従い、この地を「良し」とされた状態に保つことである。
地球のエネルギーも資源も、「入」と「出」のバランスで成り立っている。たとえば太陽エネルギーは、昼間注がれ、夜同じ量放出されるので、地球の平均温度が安定的に保たれる。もし「入」だけであるなら、金星のような灼熱の惑星になり、「出」だけであるなら、氷河期より冷たく、雪すら降らない惑星になってしまう。このように自然環境を保つには、すべてに両方向へのバランスが必要である。でも文明は、生産・加工という方向にのみ進み、undo(自然に戻す)することを考えて来なかった。また有害物質をも生産し放出するようになってしまった。資源も使い切る方向に向かってきたので、たとえば魚の収穫も減って来ている。このように文明は、片道切符でつき進んで来てしまったのだ。
今必要とされているのは、使い終わったら自然の要素に分解する素材を発見あるいは発明出来る人材であろう。自動車もパソコンも家も塗装材も、全てが新素材でつくられ、使い終わったら「土」に帰るようになれば、環境破壊を防ぐことが出来るだろう。Dust(土)から出た物はdustに戻るというのが、最初からの神の定であった(創世記3:19)。
■ 富についての考察:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。