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神学の限界と突破口

神学の限界と突破口(3)第1章 主な論争と解決─「終末論」の論争 三谷和司

2026年5月20日20時56分 コラムニスト : 三谷和司
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聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に本書独自の「略語」を用いる。

─「終末論」の論争─

聖書の言葉の「表層」だけを見ると、矛盾して見える箇所は多々ある。例えば「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ」(ローマ9:15)と語る一方で、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)とも語られる。この「表層」だけを読むと、前者は人の救いが「神の主権」によることになり、後者は「人間の自由」によることになる。これが、前回見た神学の対立「救済論」であった。

しかし、対立の原因は、神の言葉そのものにあるのではない。それを受け取る人間側の「霊的構造」を見落としてきたことにある。ここでいう「霊的構造」とは、神との関係における「人の状態」を指す。前回は、「霊的構造」を視座に据えて読み直すことで、対立が完全に統合されることを確認した。この統合原則は、今回の「終末論」の論争にも全く同じように当てはまる。

「終末論」とは、神の計画が歴史の終わりにどのように成就するのかを扱う神学の分野である。言い換えるなら、「神の国」がどのように到来し、どのように完成するのかを研究する分野である。大がかりな主題ゆえ、ここでは終末の時期、順序に関する論争に焦点を絞る。それは黙示録にある「千年王国」を巡る解釈の論争であり、そこにはおおむね対立する3つの立場がある。しかし、対立は、「千年王国」という言葉の「表層」を支えている人の側の「霊的構造」を見れば、統合される。まずは、対立する3つの立場を確認しておこう。

【対立する3つの立場】

「千年王国」に関する御言葉は、黙示録の次の記述から始まる。

また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。(黙示録20:1〜3)

ここには、サタンが千年間縛られることが書かれている。では、次を見てみよう。

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(黙示録20:4)

ここには、殉教者たちが生き返り、キリストと共に千年の間統治することが書かれている。さらに続けて、次のように書かれている。

そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。(黙示録20:5)

ここには、「第一の復活」についての説明が書かれている。そして、話はさらに続く。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示録20:6)

ここには、「千年王国」に参与する者の祝福が書かれている。

以上が、「千年王国」について記述された御言葉である。この言葉の「表層」をどう解釈するかで論争が繰り返されてきた。これが、これから見ていく「終末論」の論争である。その論争では、主に3つの解釈がある。1つは「前千年王国説」と呼ばれるもので、それは先の黙示録を文字通りに読む解釈である。2つ目は「無千年王国説」と呼ばれるもので、それは先の黙示録を象徴的に読む解釈である。3つ目は「後千年王国説」と呼ばれるもので、「千年王国」は地上の歴史の中で実現すると考える解釈である。では、それぞれの説を簡単に説明しよう。

◆「前千年王国説」

キリストがこの地上に再臨→「神の国」の成就→「千年王国」の開始→最後の審判、という順序をたどるとする立場。その「千年」は実際の期間で1千年として理解される。なお、この立場を取る多くの人は、キリストの再臨に先立って患難期(大患難)の時代が到来すると主張するが、そこにはいくつかの異なる見解がある。

◆「無千年王国説」

「千年王国」は、既にキリストの復活と昇天の時点でサタンが縛られ、「神の国」が来ていることの象徴と捉える立場。従って、今日の教会の時代が「千年王国」であり、「第一の復活」は「霊的な復活」であって、信者が救われたときの霊的再生を指す。これは、「教会時代=象徴的千年王国」とする立場である。そして、キリストの再臨と最後の審判は同時に起きるとする。

◆「後千年王国説」

「千年王国」はキリストの再臨によって始まるのではなく、福音が世界に広がることによって実現すると捉える立場。福音が全世界に浸透し、地上に平和と義が満ちる黄金時代が訪れ、それが「千年王国」とされる。よって、「千年」は象徴的な期間である。そして、この「千年王国」の後に、キリストの再臨と最後の審判が行われ、新天新地が到来し、ここに「神の国」の完全な成就を見ると主張する。

このように、黙示録に書かれている「千年王国」の「表層」を巡っては、論争が繰り広げられてきた。どの「表層」の解釈を「正」とするかで異なる教理が生まれ、それがそのままキリスト教界に分裂を引き起こしてきた。どの教理も同じ御言葉を根拠としているため、自分たちは「聖書的」であると主張できてしまうのである。では、この対立の解決を図りたい。

【対立の解決】

この3つに共通する問題点は、御言葉の「表層」にだけ目を留め、「千年」を歴史の時間として扱い、そこから「歴史の順序」を構築しようとしている点にある。それは、御言葉の「表層」を支える、すなわち御言葉を受け取る側の人の「霊的構造」を無視する行為にほかならない。

ならば、人の「霊的構造」とは何か。それは神との関係における「人の状態」である。その状態は、自分を見れば分かるように、「永遠性」の神が認識できない、「有限性」の「死の体」である。神は滅びることがないのに、人は滅び行く体である。それはつまり、神はいつも同じであり変わることがないのに、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)、「人の状態」は変わり続けるということである。神は動かないのに、人は「時間」の中で動き続ける。これが神との関係における「人の状態」であり、そこから神と人との接点が見えてくる。

◆ 神と人との接点は「今」

では、問う。変わらない「神」と、変わり続ける「人」とは関われるかを。「永遠性」と「有限性」とは、すなわち動かない者と、動く者とは同じ道を歩けるのかを。この問いと向き合ってみてほしい。すると、「永遠性」と「有限性」とが関わるのは不可能だと分かる。それ故、「有限性」の「死の体」では「永遠性」の神を認識できない。

しかし、変わり続ける「有限性」は、変わらない「永遠性」に対し、突き刺すことはできる。動かない相手に対しては、動く側からは垂直に突き刺すことはできる。

神学の限界と突破口(3)第1章 主な論争と解決─「終末論」の論争 三谷和司

「有限性」と「永遠性」との接点は、「有限性」が「永遠性」に突き刺さる瞬間だけであり、その一点でなら交わることができる。交わった瞬間の点は、動き続ける中ではすぐに「過去」になってしまうが、確かに瞬間だけは「永遠性」と触れ合うことはできる。この瞬間が「今」である。つまり、「永遠性」と「有限性」の接点は「今」である。神と人の接点は、いつの時代も「今」である。人が神と出会えるのは「過去」でも「未来」でもなく、「今」だけであるというのが、神との関係における「人の状態」であり、それこそが人の「霊的構造」である。

このことは、神を「どこまでも続く空」とし、人を「その下を走り続ける列車」として考えると分かりやすい。「空」は動かず、全てを覆っているが、「列車」は時間というレールの上を休まず動き続けている。「列車」は常に「空」の下にあるが、「空」を見上げるかどうかは、走り続けている「列車」に乗っている乗客(人)の選択である。人が「空」と向き合えるのは、窓の外を見ると決めた「今」だけである。

次に、神を「太陽」とし、人をその周りを回る「地球」と見立ててみよう。「太陽」は動かないが、「地球」は休まず動き続けている。「地球」は常に「太陽」の光を受けているが、「太陽」を見るかどうかは人の選択である。人が「太陽」と向き合えるのは、見ると決めた「今」だけである。なぜなら、過ぎ去った過去の「太陽」の光で体を温めることはできず、まだ来ない未来の「太陽」の光をあらかじめ浴びることもできないからである。

さらに、神を動かない「無限に広がる紙」とし、人をその「紙」に線を引き続ける「筆」と仮定してみよう。その場合、動く「筆」が「紙」に触れられるのは筆先だけであり、筆先が「紙」に触れていられるのは「今」だけである。一度触れて引かれた線(過去)には戻れず、まだ引かれていない線(未来)にも触れることはできない。つまり、動かない神と、動き続ける人が触れ合えるのは「今」しかない。これが神との関係における「人の状態」であり、それこそが「霊的構造」である。そもそも、存在するのは「今」だけである。

◆ 存在するのは「今」だけ

人は「時間」と聞けば、「過去」と「現在」と「未来」を思い浮かべる。しかし、「過去」はどこに存在するのか。「過去」はどこにも存在しない。では、「未来」はどこに存在するのか。「未来」はいまだ存在していない。存在しているのは「現在」だけである。「過去」は、「現在」の中の思い出として存在し、「未来」は「現在」の中の想像として存在するだけで、存在するのは「現在」と呼ばれる「今」しかない。「過去」も「未来」も、存在できる場所は「今」しかないのである。

つまり、神が約束された「未来」は、「未来」に存在するのではなく、「今」、私たちの中に存在するということである。「時間」の流れの中に神の約束の「未来」があるのではなく、変わらない神が約束された時点で、「今」、私たちの中に存在することになったのである。聖書に書いてある歴史の教訓も「過去」の話ではなく、それも「今」、私たちが受け取る「現在」の話である。

このように、神と人との接点は常に「今」であり、聖書に書いてある出来事は「時間」の中で受け取る話ではない。「今」、「信仰」で受け取る話なのである。神が約束された「神の国」の「未来」は、「今」受け取る話であり、この受け取りを「信仰」という。それで聖書は、次のように教えている。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル書11:1、新共同訳)

「信仰」とは、「見えない事実を確認すること」とあるが、それは「今」受け取るということである。故にイエスは、まだ見えない「神の国」のことを、「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と宣言されたのである。すなわち、「信仰」とは神の約束を「今」受け取ることであり、それこそが神と人との「霊的構造」にほかならない。なぜなら、存在するのは「今」だけであり、「過去」も「未来」も、人の中の「今」の中でしか存在できないからである。このことが分かれば、「終わりの日」の意味を正確に知ることができる。

◆「終わりの日」は「今」

神と人との接点は「今」である。動き続けている「有限性」の人が、動かない「永遠性」の神を見ることができるのは、見ようと決断した「今」だけであり、神の声を聞けるのも、聞こうと決断した「今」だけである。それでイエスは、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(マタイ22:32)と宣言されている。

さらには、神の呼びかけを聞けるのも「今」であると語られた。「神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です」(ヨハネ5:25)。よって、神からの恵みの時も、救いの日も「今」であり、「今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)、「神の国」の到来となる「終わりの日」も「今」である。「今は終わりの時です」(Ⅰヨハネ2:18)。

事実、「終わりの日」は「今」である。故にイエスは、「今」、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われたのである。人が神と出会えるのは「過去」でも「未来」でもなく、「今」しかない。この「霊的構造」が分かると、「千年王国」が記述された御言葉は歴史の時間の中で起こる話ではなく、それらは全て「今」起きる話であり、「今」信じて受け取る話であることが分かる。

◆「千年王国」は「今」の話

「千年王国」に入る者は、「第一の復活にあずかる者」(黙示録20:6)とある。これは、神と人との接点はいつの時代も「今」であることから、神の呼びかけに「今」応答した者を指す。その者は「永遠のいのち」が与えられ、「死人」から「生きる者」に変えられる。すなわち「死」から「いのち」に移されるのであり、それが「第一の復活にあずかる者」である。その者は、まことの神を信じられるようになるゆえ、「信じている者は、永遠のいのちを持っていて、さばきに会うことがなく、死からいのちに移されています」(ヨハネ5:24、私訳)とイエスは言われたのである。そして、その者は「今」、「神の国」のただ中にあることから、イエスは「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)とも言われたのであった。

そうなると、その者はもう死ぬことがないため、この地上では神と共に死に勝利した王として生きることになる。それが象徴的に、「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死(肉体の死)は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(黙示録20:6、※( )は筆者が意味を補足)と書かれている。

ここで注意したいのは、「第一の復活にあずかる者」以外は「永遠のいのち」を持たないため、彼らに訪れる「肉体の死」は、そのまま人である「精神」が機能停止することを意味する。なぜなら、「精神」が機能するには、「体」と「魂」の両方が不可欠だからである。つまり、神の呼びかけに応答しない者が迎える「肉体の死」は、その人の滅びを確定させてしまうのである。そこで、これを「永遠の滅び」といい、「第二の死」と呼ぶ。その恐ろしさを黙示録は、「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(黙示録20:14、15)と、象徴的に描いている。

このように、神と人の接点は「今」しかないという人の「霊的構造」が分かれば、「千年王国」が記述された御言葉は全て「今」の話であって、「千年」を歴史の時間として扱い、「歴史の順序」を作ろうとすることは誤りであることが分かる。すなわち、「終わりの日」とは人類全体の話ではなく、個人における「今」の話なのである。さらに理解を深めるなら、次のことも知るとよい。

◆「終わりの日」は二度ある

「終わりの日」とは、神が人をよみがえらせる日である。「終わりの日によみがえらせる」(ヨハネ6:39)。その「終わりの日」は、二度あることを知る必要がある。一つは、神の呼びかけに応答し、「死」から「いのち」に移されたときであり、「死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)、その時に「霊の体」を着せられ「永遠のいのち」を持つ者になる。これを「第一の復活」(黙示録20:5)といい、「救いの日」と呼ぶ。そして、その日は常に「今」である。「今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)。

もう一つは、この肉の体を脱ぎ捨てさせられ、着せられた「霊の体」で天に引き上げられるときである。これが「第二の復活」であり、二度目の「終わりの日」となる。そして、「第一の復活」の「終わりの日」にあずかった者は、天に引き上げられる二度目の「終わりの日」を迎える。しかし、それまでは地上でさまざまな患難に会うことは避けられないが、必ず天に引き上げられるゆえ、心配する必要はない。そのことを教えたのが黙示録であり、「千年王国」の話である。イエスも、次のように教えておられる。

わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。(ヨハネ6:39、新改訳2017)

「わたしに与えてくださったすべての者を」とは、「第一の復活」にあずかった者のことであり、その者を「終わりの日」によみがえらせることが御心だと、イエスは言われたのである。そしてイエスは、続けて次のように言われた。

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が(信じている者が:原文は現在形)みな永遠のいのちを持ち(永遠のいのちを持っている:原文は現在形)、わたしがその人を終わりの日に(肉体の死の日に)よみがえらせる(未来形)ことなのです。(ヨハネ6:40、新改訳2017)※( )は筆者が意味を補足。

イエスはここで、「その人(単数形)を終わりの日によみがえらせる」と言ったのであって、「全員を一斉に」ではない。従って、「千年王国」は個人における話であり、神が「第一の復活」にあずかった「その人」を、各人を襲う「肉体の死」の日、すなわち各人の「終わりの日」によみがえらせるのである。なぜなら、神と人との接点はいつの時代も「今」しかないからである。このことが分かれば、「終末論」の対立も解決する。「千年王国」の御言葉の「表層」だけを見ると3つの立場が生まれ、対立するが、それを支える「霊的構造」が分かれば、対立は統合される。つまり、対立の原因は「霊的構造」を見落とし、御言葉の「表層」だけを読んだことにある。

付言すれば、存在するのは「今」だけであることを最も精密に論じたのはアウグスティヌス(354〜430)である(『告白』第11巻、第11~31章)。彼は個人の内面的な回心においては「永遠と今」の交差を鋭く捉えたものの、歴史の完成としての終末論においては、過去から未来へと進む直線的な時間の枠組みから抜け出すことができなかった。

この「今」という真理が終末論に正しく結び付いたのは、何と20世紀になってからである(C・H・ドッド)。さらに、20世紀を代表する哲学者ハイデッガーの代表作『存在と時間』も、アウグスティヌスの時間論の深い影響下にある。そうである以上、この真理が1500年以上も神学の中で眠ってしまったことは、神学史における大きな損失と言わざるを得ない。

次回は、「贖罪論」の論争について考察する(続く)。

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◇

三谷和司

三谷和司

(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手がけ、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美はすべて著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

■ 神木イエス・キリスト教会ホームページ
■ ノア・ミュージック・ミニストリー YouTube チャンネル

※ 本コラムの内容はコラムニストによる見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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