フィリアの性質
ある関係性において、その感情的な結び付きが寛大で惜しみない愛の状態にあるとき、それはギリシャ語でフィリア(Philia)と表現することができます。
フィリアとは、人や場所、または物に対して抱く主観的な愛情を指します。それは、関係が存続し、成長していくことを可能にする温かさです。相手を受け入れ、関係を大切にし、そのつながりを保とうとする愛の形です。
このような文脈でフィリアという言葉を用いるとき、それは、関係を保ち、または回復させようとする愛の温かさを意味します。
神のうちに常に存在するフィリア
フィリアは神のうちに、創造の初めから常に存在しています。聖書は神を「焼き尽くす火」と表現しており、また多くの箇所で、火という表現が神の愛の強さを表すために用いられています。
神が人を創造し、ご自分の子としようと決められたとき、神は同時に、人に与えられる自由意志の故に、人が人生のどこかで誤った選択をする可能性が高いこともご存じでした。そのため、いずれ和解が必要になることも見越しておられたのです。
聖書は、神の愛をドッド(Dod)、キナー/カンナー(Qinah / Qanna)、フィロス(Philos)、フィリアといったさまざまな形で表現しながら、神のもとへ戻る道が決して閉ざされないことを私たちに教えています。神の燃えるような愛は、私たちに対して、関係性を回復する道を常に開いているのです。
フィリアと和解への道
人が神のもとへ引き戻される必要が生じたとき、その関係性を回復する必要がありました。
その時、重要な役割を果たしたのが、神のフィリア、すなわち神の感情的な愛です。この愛は常に存在していました。そしてそれは、和解を可能にする温かさの源となりました。
フィリアとは、相手を赦(ゆる)し、その過ちを覆い、関係性を守ろうとする愛です。それは、和解の扉を開く愛なのです。
フィリアが示されている聖句
このフィリアは、箴言17章9節に美しく示されています。
愛を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。(箴言17:9)
この節で用いられているヘブライ語「アハバー」(Ahabah、H160)は、七十人訳聖書においてフィリアと訳されています。
フィリアとは、友情や愛情を表す言葉です。ここでは、相手の過ちを覆うことが、愛を求める行為であることを示しています。それは、関係性を壊すのではなく、むしろ守ろうとする愛なのです。
このように、和解と関係性の回復は、このフィリアの愛と深く結び付いています。
フィリアと神からの交わりへの招き
父なる神が、私たちの罪のためのなだめの供え物として主イエス・キリストを遣わされる前から、神においてフィリアは既に存在していました。神はその温かさによって、世の基(もとい)が据えられる前から、罪を覆う計画によって、人をご自分との交わりへと招いておられるのです。
これは、神の愛の情愛に満ちた側面を示しています。それは、人々を再びご自分との交わりへと迎え入れる愛です。この真理は、ヨハネの黙示録13章8節にも示されています。
地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。(黙示録13:8)
つまり、救いの計画は、後から思いつきで立てられたものではありません。人との関係性を回復しようとする神の意図は、創造の初めから存在していたのです。
アガペーの保護的役割
しかし、神の愛においてフィリアがどれほど寛大で豊かなものであったとしても、この側面は保護される必要があります。実は、神の愛における寛大さであるフィリアの側面は、アガペー(Agape、G26)と呼ばれる神の愛の意志的側面によって守られていると見ることができます。
神の愛においてアガペーは、神の契約的な熱情(キナー)の現れを保護し、導いています。それによって、神の献身の火が常に、神を愛する者の益のために働くように保たれています。
従って、神のアガペーは、神の愛の寛大さであるフィリアと、契約的な熱情の強さであるキナーの両方を守っているのです。
ギリシャ語の用法(古典ギリシャ語および聖書ギリシャ語の両方)において、アガペーは基本的に次の意味を持ちます。
- 愛すること
- 価値を認めること
- 選び好むこと(選好)
従ってアガペーは、この愛の結び付きの中で行われる評価と選好を確立し、その関係性における行動を導きます。この愛の結び付きが強く保たれ、健全に続くための条件を定めるのです。
このため聖書は、ヨハネの福音書3章16節において、次のように語っています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(アガペー)。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
神は、ご自身の独り子をお与えになりました。言い換えれば、神は、その価値を認め、選び取る愛であるアガペーによって行動し、その内側にあった評価が「現された愛」となるようにされたのです。そしてこのアガペーは、その評価を現す一つの条件を伴います。それは「御子を信じる者」という条件です。
このように、神のアガペーは、神の愛の結び付きの中に入ることができ、またその中にとどまり続ける者のための条件を定め、神のフィリアを守っています。それ故、アガペーは「御子を信じる者」との条件を語るのです。
この評価において、神がご自身の思いと意志を用いられることは、神の愛のアガペー的側面です。それはしばしば、神の意志的な愛と呼ばれる神の内的決定です。
この内的な評価であるアガペーは、神のうちにとどまりませんでした。父なる神は、主イエス・キリストをお与えになることによって、それを行動へと移されました。この行為を通して、内側にあった評価は、現された愛となったのです。
アガペーによって現されるこの内的な評価は、ヘブライ語の「ハーシャク(Chasaq)」という語で表すことができます。この語は「強い結び付き」あるいは「確固とした献身」という意味を含んでいます。
「御子を信じる者」との条件は、この内的な評価──すなわちアガペー──の一部であり、同時に神の寛大で豊かな愛であるフィリアを守る役割も果たしています。それは神の価値体系の一部を形成し、行動へと導き、さらに人類と神との間の愛の結び付きを強めます。
神のフィリアとアガペー(ハーシャク)の両面が、ヘブライ語では「アハバー」という一語で表現され、神の包括的な愛を示しています。ギリシャ語では、この両面を同時に表現できる適切な語を見いだすことは難しいです。
神の愛の温かさに対する人の応答
人は福音を聞くことを通して、神のフィリアによってその愛の温かさを受け取ることが許されています。神のフィリアは、人のうちに温かさと心の開かれた状態を生み出し、神の与えようとしておられるものを受け取れるようにします。
このことは、次の聖句に示されています。
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)
御言葉を聞くことによって、聖霊がその御言葉を通して働かれます。神の言葉は、聞く者のうちで聖霊が働かれる霊的な実体となります。
人が神の温かさを感じるとき、信じる者のうちに小さな信仰(オリゴピスティア、ὀλιγοπιστία)が芽生え始めます。そして、人は聖霊による思いによって、神の愛についての真理を理解することができるようになります。
この信仰は、心を目覚めさせ始めます。信仰が目覚めると、心は、神が与えておられるものを受け入れる状態になります。心がこのような状態になると、人は、神が与えておられるものの価値を認め始めます。
これは内面的なアガペーと表現することができます。まだ外に現れていない未顕現のアガペーです。それは、神に対する評価としての応答の始まりです。
この段階で、その人は内面的に神に向かう心の姿勢を持つようになり、神に応答することができる状態になります。この段階で、人は選択を行います。この選択は、思いと意志を用いる行為であり、これは意志的な愛、すなわちコミットメントとしてのアガペーの働きです。
このように、アガペーには評価と決断が含まれます。それは、神が示されたことを、正しくふさわしいものとして選び取る力です。この人の側での選び取りは、顕現したアガペーとなります。
この応答は、聖書が語るように、口による告白として現れます。
では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:8〜10)
このように、心の中の内面的な評価は、告白という外に現れる応答となります。
このようにして現れたアガペーの応答を通して、人は神と主イエス・キリストに対する関係性をさらに育てていきます。このアガペーの応答から、人はフィロスを育て始めます。フィロスとは、神との関係性を継続していく中で成長していく愛情的な側面です。
この段階から、信じる者は、神とのより深い結び付きと親密な愛によって、その信仰を成長させていきます。
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