仏式葬儀が主流の日本では、キリスト教式葬儀に参列する際、両者の違いをネット検索などで調べる人が多いようです。ネット上にはさまざまな情報がありますが、マナーや服装についての解説が多い半面、キリスト教信仰への理解不足から、仏式葬儀との本質的な違いに触れる記載が少なく、誤った解説も見られます。
これらの要因は、知見の乏しい葬儀社などからの発信に比べ、司式をする牧師からの発信が少ないことによりますので、今回、仏式葬儀とキリスト教式葬儀の共通点と相違点について取り上げたいと思います。
キリスト教式葬儀の意味
キリスト教式葬儀には4つの意味があるといわれています。
1. 故人に対する敬意を表し、遺体を丁寧に葬る
2. 遺族や参列者の互いを慰める
3. 参列者が、故人の生涯から学び、故人との新しい関係を始める契機とする
4. 故人の生涯を導かれた創造主である神様を礼拝する
この中で、仏式葬儀との共通点は1~3であり、4の神様を礼拝することが大きな相違点になります。キリスト教式葬儀では、故人はすでに創造主である神様のもとに召されたことを前提にしていますので、葬儀は、故人の生涯を支え、御許に召してくださった神様を礼拝する時になります。
一方、仏式葬儀では、「供養」(故人の霊を慰め、冥福を祈ること)の意味が加わります。仏式葬儀の中にある読経や仏具、また葬儀後に続く法要などの習慣は、故人を供養したい人の思いが形となり、それぞれの宗派ごとに長年受け継がれたものですから、現代人には理解しにくい内容が含まれています。
仏教の中の「供養」の役割
日本では、誕生、成人、結婚、死などに、伝統に基づいた一連の儀式(通過儀礼)を大切に実施してきました。通過儀礼は、人々の心を平安にし、社会を安定させる重要な役割を担っていますが、共同体を大切にする日本では、特に死に際して、仏教に基づく通過儀礼が家族親族の絆を支えてきたように思います。
人が亡くなると、「枕頭の祈り」⇒「納棺」⇒「通夜」⇒「葬儀」⇒「火葬」⇒「埋葬」⇒「法要」の順に儀式が進みます。遺族は、このような儀式を通して、召された大切な人を故人として受け入れ、故人との新しい関係を築いていくことになります。
このような一連の儀式には、仏教の中にある「供養」(故人の霊を慰め、冥福を祈ること)の思いが込められていて、遺族は供養を通して故人と向き合い、悲しみや寂しさを乗り越えていきます。
キリスト教式葬儀には「供養」がない
一方、キリスト教式葬儀では、故人は弱さを抱える肉体から解放され、既に全能の神様の御許に召されていますので、そもそも「供養」の要素がありません。葬儀は故人のためではなく、遺族や参列者のために執り行われます。
葬儀では、故人の生涯を支え、御許に召してくださった神様からの「慰めと励まし」が、故人を失った悲しみや寂しさを覆い、遺族や参列者は故人との新しい関係へと導かれていきます。
参列した人の多くが、キリスト教式葬儀に対し明るい印象を持つ理由は、故人への「供養」の負担から解放され、故人の死を乗り越える「慰めと励まし」を無条件に受け取れるからだと思います。
日本人に向けたキリスト教葬儀文化
このような特徴を持つキリスト教式葬儀は、現代の日本社会で好感を持たれ、徐々に依頼者が増えていますが、長年、仏教葬儀文化の中にあった日本社会ですから、キリスト教式葬儀に参列する機会がいまだ少ないのは否めません。
実際に体験のない人の中には、故人への「供養」の要素を持たないキリスト教式葬儀が、故人に対して冷たく感じることもあるようです。
私たちは、キリスト教式葬儀を展開するに当たり、このような日本人の現状に合わせ、長年培われた仏教葬儀文化を否定することなく、その中にある伝統や習慣に寄り添い、日本人にふさわしいキリスト教葬儀文化を築いていきたいと願っています。
仏教葬儀文化に敬意を払いたい
かつて日本社会では、仏教葬儀文化のもと、家族親族の強い共同体である「家」に寺院の住職が寄り添い、「供養」を重ねる通過儀礼の習慣を築いてきました。
日本人の多くはこれらの習慣を通し、「家」の強い絆に守られ、死後は先に召された先祖の共同体に加えられることを意識して、死を乗り越えようとしてきました。(参考:日本人に寄り添う福音宣教の扉(195))
私たちは、仏教が果たしてきたこれらの役割に敬意を払い、仏教離れが進む現代社会においても、仏教葬儀文化で培われた儀礼のただ中に、神様から「慰めと励まし」を受け取るキリスト教葬儀文化を育てたいと願っています。
日本の伝統や習慣に合わせ、何百年も続いた仏教葬儀文化を通して培われた「供養」の思いに寄り添い、福音を届ける地道な作業を続けたいものです。
やがて、日本人の心になじむキリスト教葬儀文化を通し、神様からの「慰めと励まし」が、多くの日本人に天国の希望を与える時代が訪れると信じています。
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