クリスマスといえば、多くの人が「サンタクロース」を思い浮かべますが、オランダにはシンタクラース(オランダ語: Sinterklaas)が11月半ばにやって来ます。彼は、従者のズワルトピートと共にスペインから船でやって来て、12月6日には去っていくそうです。
モデルになった人物は、ミラの聖ニコラオスという大主教で、彼は実際に貧しい子どもに愛の施しをし、冤罪(えんざい)となった人々を擁護し、皇帝によるキリスト教迫害の時代において恐れずに宣教して幽閉され、獄中で囚人を励まし、コンスタンティヌス帝の即位とともに迫害時代が終わると、大主教に復職したとのことです。
まさに「愛」を実践した人物ですが、本来のクリスマスの主人公は、この聖ニコラオスが信仰の対象としていたイエス・キリストです。今日は、この方が公に示された「神の愛(アガペー)」について改めて書かせていただきたいと思います。まずは、エペソ書を読んでみましょう。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)
ここで注目したいのは、「夫たちよ、自分の妻を愛しなさい」とある点です。「愛」というのは、双方が愛し合うものであるのに、なぜ聖書は夫にだけ「愛しなさい」と語っているのでしょうか。
私たちが聖書を読むときに気を付けなければならないことは、自分を中心として解釈してしまうことです。ここでは、自分が夫の場合は「夫」という箇所を自分のこととして読むでしょうし、自分が妻の場合は「妻」という箇所を自分のこととして読むでしょう。そして結婚していない方は、自分には関係のない聖書箇所だと思われるかもしれません。
しかし、聖書の主人公は神様であり、そのひとり子イエス・キリストです。ですから、私たちは聖書を読むときに、「全ての箇所が神様について、キリストについて語っている」というくらいの意識でいなければ、本意を見失うことになりかねません。キリスト自身がこのように語っています。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)
新約聖書がキリストについて語っているというのは理解できますが、キリスト生誕以前に書かれた旧約聖書もまた、彼について証言しているというのです。ですから私たちは、ヨナ書や出エジプトの物語であっても、また、親子関係、歴史、作物や動物のいけにえについて論じている箇所であっても、常に主を中心にして聖書を読んでいくのです。
では、先ほどの箇所はどのように理解したらよいのでしょうか。これには、もう少し説明が必要です。実は、聖書の書かれた時代というのは、良い悪いは別として、男性が女性よりも圧倒的な力を持っていました。今のように機械が発達していたわけでもありませんので、大抵のことは人間が力仕事でしなければなりませんでしたし、いざ争いが起きたときに、戦士として国や家族を守るのは男性の役目でした。
今は、男性よりも才能や能力を発揮して社会で活躍する女性がたくさんいらっしゃることは、周知の事実かと思います。しかし当時の女性は、男性に愛され、守られなければ生きていけなかったのです。
つまり、聖書の時代には一言で「愛する」といっても、「与える愛」と「受ける愛」があったのです。そして聖書は、夫に対しては「一方的」に与える愛で「愛しなさい」と勧めたのであり、妻には、夫のその愛を受けて夫を敬うことを勧めたのです。
そして、この聖書箇所は人間の夫婦のことをメインテーマとして語っているのではなく、実はキリストと教会(キリストを信じる人々)との関係について語っているのです。これは私の私的解釈ではありません。32節を読んでみましょう。パウロ自身がこう解説しています。
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5:32)
これはつまり、当時の男性が女性よりも強い存在であったように、主は私たちよりも強い存在であり、夫が妻を一方的に愛することが勧められていたように、キリストは私たちを一方的に愛してくださっているということを語っているのです。
実際のところ、私たちは自ら率先して神を愛することができません。先に、神の驚くほどの愛を受け、そして神を敬うのです。神は「愛」を私たちに与えてくださるのであり、私たちは「受ける愛」の心をもって、その愛を感謝して受容するのです。
自身に正直な人は「自分には愛がないな」と感じることがあるかもしれません。それは、ある意味では当然のことなのです。なぜなら、愛の源泉が私たちのうちにはないからです。
まず大前提として、愛するときには必ず犠牲が伴うものです。物質的に分け与えなければならないこともあるでしょうし、時間を割くこともあるでしょう。「家族はコスパが悪い」などという議論とは対極にあるのが愛の論理です。バプテスマのヨハネはこう語りました。
彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」(ルカ3:11)
イエス様は、さらに上着まであげなさいと言われました(マタイ5:40)。しかしこれらのことを実践しようとすると、すぐに自分のうちに愛の不足を覚えるはずです。最初は少し分け与えられるかもしれませんが、すぐに枯渇してしまうのです。なぜなら、私たちが分け与えることのできる愛には、おのずと限界があるからです。
ただ主だけが満ち満ちたお方であり、分け与えても、分け与えても、尽きることのない方です。バプテスマのヨハネがこのように証言しています。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1:16)
ですから私たちは、この方の愛と恵みを受けて初めて、他者を愛することができるようになるのであって、決してその逆ではありません。この神の愛を深く体験(実感)しないうちに、「愛しなさい」という「勧め」だけを受けてしまうと、その言葉は重荷となり、「律法(戒め)」になってしまいます。なぜなら、私たちは皆が利己的で、自ら進んで犠牲を払って他者を愛することができないからです。
ところが、このことは絶望を意味するのではありません。この愛のない私たちを一方的に、無条件に愛してくださる主がいるからです。私たちが主を愛したのではありません。主が私たちを愛してくださったのです。私が大学生の時に初めて接してとても感動し、今に至るまで聖書の神髄だと感じている箇所があります。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)
この言葉を心の深いところに受け入れていただければと思います。この神の愛を十分に受けずして、この神の愛を深く悟らずして「愛」の実践をしようとする者は、すぐに行き詰まり、周りの人にそれを押し付けようとすれば敬遠され、たとえそれが純粋な愛に見えても、何か不純なものを内包することになります。
ある海外の社会実験のようなものをニュースで見たのですが、小さな女の子が一人で迷子になっていた場合、大人たちがどのような反応をするかというものでした。実験は同じ女の子を起用して二度行われたのですが、一度目はきれいな服を着せて行われました。そうしたところ、周りの大人たちが皆心配そうに声をかけてくれたそうです。二度目は、同じ子に汚い服を着てもらい、同じ実験をしました。結果はどうだったでしょうか。
この場合は、「誰一人」声をかける大人はいなかったとのことです。実際は、きれいな服を着ている子より、貧しそうな子の方が助けを必要としているはずです。私たちの愛の善意には、このような限界があるのです。
ところが、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方です(マタイ5:45)。そして、主は私たちのことを友と呼んでくださいました(ヨハネ15:15)。私たちが豊かであろうと、貧しかろうと、罪人であろうと、愛のない者であろうと、どのような背景を持っているとしても、主は私たちを「友」と呼んでくださいます。そして、キリストは至上の愛について、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)と語られました。
語られただけではありません。その言葉通り、ご自身の命を十字架の上で犠牲として、全ての血を注ぎ出されながら、私たちに対する究極の愛を見せてくださったのです。つまり、夫たちに対して「自分の妻を愛しなさい」と書かれている言葉は、私たちの夫であり花婿であるキリストが、十字架上でなされたことが原形だったのです。
そして父なる神は、何よりも大切なひとり子が犠牲となるのを承知の上で、2千年前にキリストをこの地に生誕させてくださいました。それこそが、世界で最初のクリスマスの時に示された、父なる神のアガペーの愛なのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16、17)
私たちは、自分のうちから「愛」を絞り出すことはできません。オレンジを絞ればジュースが出てきますが、私たちの内面をいくら絞り出しても、何も出てこないのです。私たちはただひたすら一方的に、夫であり花婿である主の愛と父なる神の愛を感謝して受け入れるのです。
そうするときに初めて、私たちは愛の人に少しずつ変えられ、「愛しなさい」という言葉に心から賛同する者になっていきます。その人にとっては、同じ「愛しなさい」という言葉が、もはや重荷や義務(戒め)とはなりません。それは、勉強好きな人には「勉強をしなさい」という言葉が重荷にならないのと同様です。それは「新しい戒め」(ヨハネ13:34)となり、「自由の律法」(ヤコブ1:25)となるのです。
聖ニコラオスもまた、この神の愛に触れて、愛の実践をする者となり、多くの人に感動を与えました。そしてそのことがシンタクラース、またサンタクロース伝説として世界中に知られるようになったのです。
愛について語ると、お花畑の理想論だと思われるかもしれません。特に、各地で戦争が起きている今日においては、愛よりも武器や力こそが平和をもたらすと考える方々もいるでしょう。確かに現実の世界においては、私たちが愛や平和を語ったとしても、「力なき正義は無力である」ということになるのかもしれません。
しかしそれは、人の正義や愛に打算的なものや欠けがあるからだ、とも思います。私たちは一方的で圧倒的な神の愛に包まれるとき、誰であれ、変わり得るのです。他の人が変わるのを待つ必要はありません。少なくとも私たちは、自分自身の魂において神の愛(アガペー)を素直に受け入れ、イエス・キリストの誕生に感謝することはできるのですから。
最後に一つ、有名な話を紹介したいと思います。何千万もの人々が互いに殺し合った第一次世界大戦中、1914年のクリスマスに、たった一度だけ、最前線にいたドイツと英国の兵士たちが「きよしこの夜」を歌って共にクリスマスを祝ったという出来事がありました。その日、誰彼となく塹壕から出てきて、共に配給品を交換し、サッカーをし、記念写真を撮り、昔ながらの友のようなひとときを過ごし、イエス・キリストの生誕を祝ったということです。昨日まで殺し合っていた人々に奇跡が起きたのです。
私たちは、自己の正義を声高に主張することや、武力や力によって相手を押さえつけることは反感を招くだけであることに、気付かなければなりません。このままで行くと、私たちは近い将来、AIやロボットによって互いを滅ぼし合うことになりかねません。むしろ私たちは、復讐の連鎖が絶たれ、和解し、互いに愛し合うことができるように、多くの方々の祈りに合わせて祈り続けたいと思います。
どうか一人でも多くの人が、一方的に「わが息子、娘」と呼んでくださる父なる神の愛(Agape)、「友」と呼び、十字架上で全ての血を流されたキリストの犠牲(Amazing Grace)、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる聖霊の心(Compassion)に気付き、その心が主の愛で満たされますように。
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