パレスチナとイスラエルの紛争は、領土問題や政治問題であり、宗教問題ではないといわれる方々もいるようです。しかし、「戦い」をしているのは「人」であり、多くの当事者の方々が大切にしているのが宗教ですから、それを読み解くことなしに、今回の紛争の深層部分を理解することはできません。そこで今日は「戦い」の本質について、旧約聖書・新約聖書・コーランをもとに書かせていただきたいと思います。
■ ジハード
まずは、イスラム圏の「戦い」、特に「ジハード」について考えてみたいと思います。具体的なジハードの事例としては、初期のビザンツやペルシアへの侵略戦争があり、第一次世界大戦の際には、オスマン帝国が「ジハード」宣言を発したと記録されています。しかし、侵略的なジハードに関しては、積極的に推奨されているわけではないという点にも留意が必要です。百科事典ウィキペディアの「ジハード」の項目の一部を引用してみましょう。
『クルアーン』は、戦争が正当なジハードたりうるのは異教徒が戦いを挑んできた場合に限られることも示しており、第2章第190節には、「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない」とある。(「ジハード」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より)
時代背景についていえば、中世の世界観というのは、現代日本のように平和な世界とはまるで異なります。他の宗教やさまざまなグループとの争いに勝てなければ、自分たちの共同体自体が滅んでしまうような時代でした。ですから、特に防衛的なジハードに関しては、全てのムスリムの義務とされていました。そして、その戦いにおいて殉教した者は、天国に行くことができると信じられています。
今回のハマスからの攻撃は、イスラエル側から見ればテロであり、イスラエルの人々は自衛的な戦いをしているということなのですが、ハマス側の戦闘員たちのメンタルの中にはジハード的な要素が含まれていて、彼らがそれによって鼓舞されている面があることは否定できないでしょう。
今のところは、ハマスが先制攻撃をしたのですから、客観的には防衛的ジハードとはいえず、他の諸国が即座に参戦ということにはなっていませんが、ガザ地区の民間人の犠牲が増え続けた場合、「防衛的ジハード」が発動してしまう可能性はあります。これが正式に認められた場合、原則的には全ムスリムが国家や民族を超えて、義務としてジハードに参加しなくてはならないと定められている点を軽視してはなりません。
■ キリスト教の過ち ―クルセード(Crusade)―
一方で、歴史を振り返りますと、キリスト教側にも十字軍という武力によって聖都エルサレムを奪還しようとした試みがありました。これは、クルセード(Crusade)と呼ばれました。では、キリスト教の武力行使には何らかの聖書的な根拠があるのでしょうか。冷静に聖書を読むと、新約時代においての武力による戦いは、キリストによって否定されていることが分かります。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)
しかし、LGBT問題のコラムでも書きましたが、中世までのキリスト教会で聖書を読めたのは一部の聖職者に限られていましたから、正確な新約聖書理解が進んでおらず、旧約聖書における「戦い」と新約聖書の教えの区別ができていなかったのだと思います。
そして実は、現代においても明確に区別できていない方が多くいるのではないかと思います。ビン・ラディン氏が米国との戦いをジハード「聖戦」だと位置付けたときに、ジョージ・W・ブッシュ元大統領も、それに対抗する戦いを「十字軍(this crusade)」という言葉で表現し、多くの批判を招きました。彼だけではありません。ドワイト・D・アイゼンハワー元大統領も欧州に侵攻する日に「The Great Crusade」という言葉を使ったということが記録されています。
■ 旧約時代における「戦い」
では、旧約聖書時代における戦いとはどのようなものだったのでしょうか。例えば、有名なモーセがヨシュアという後継者を将にして、アマレクという民族と戦ったときの記録が聖書の中に記述されています。
モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。(出エジプト17:9〜13)
このように、旧約時代においては信仰と実際の戦いという概念が密接にリンクしていて、宗教指導者の指揮のもとで敵を殲滅(せんめつ)するということがありました。イスラム教も旧約聖書を教典としていますから、旧約聖書の戦いがジハードの原型となっているともいえるでしょう。
■ 新約聖書の視座
旧約聖書が地上の肉体に関することに言及しているのに対し、新約聖書が語っているのは魂に関する内面的、霊的、永遠的、天的な事柄に関することです。幾つか例を挙げると、このように整理することができます。
出エジプト(奴隷からの解放)→ 罪の奴隷からの解放
紅海を割る → バプテスマ(洗礼)
荒野の旅 → 魂(心)の遍歴
パン(マナ) → 神の言葉
岩から流れ出た水 → 神の霊(聖霊)
約束の地(カナン)への帰還 → 天の(魂の)故郷への帰還
ぶどう酒や動物の血 → キリストによる贖罪の血
そして、旧約聖書に書かれている地上の「戦い」の描写というのは、罪や悪などの自己の内面(もしくは偶像崇拝や悪霊)との霊的な戦いを象徴しています。エペソ書にこのように書かれています。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)
新約聖書は「私たちの格闘は血肉に対するものではなく」と明確に釘を刺しています。そして信仰者が使う武具は、戦車やミサイルではなく、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣(神の言葉)などの内面的なものであることを、はっきりと教えています。
先ほどのアマレクとの戦いにおいて、「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり・・・」というのは、実際の戦闘場面を描いているようですが、本質的には祈りの大切さを伝えているのであり、神に対する信仰と祈りによってのみ、人は自己の内面的な戦いに勝利することができるということを教えているのです。
■ 大ジハード(内へのジハード)
もう一つ押さえておきたい重要な点は、イスラム教においても、武力による戦いは「小ジハード」であるとして、それよりもはるかに大切で困難な戦い「大ジハード」という概念があることです。今一度、もう少し詳しく、ジハードに関する記述を抜粋して引用してみましょう。
ジハード(جهاد jihād)は、アラビア語の語根 جهد(J-H-D、努力する)から派生した動詞جاهد(ジャーハダ、自己犠牲して戦う)の動名詞で、「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する。「大ジハード」と「小ジハード」がある。
「大ジハード」(内へのジハード)は個人の信仰を深める内面的努力を指す一方、「小ジハード」(外へのジハード)は異教徒に対しての戦いを指す・・・
「大きなジハード」すなわち「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪や不正義、欲望、自我、利己主義と戦って、内面に正義を実現させるための行為のことであり、それだけに、いっそう困難で重要なものとされる。
・・・これは通常、神の道を実現するために、各個人が自らの心のなかの堕落・怠惰・腐敗などの諸悪と戦う克己の精神を意味しており、強い意志で自分をよりよくしていこうという努力である・・・(「ジハード」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より)
イスラム教というと、「コーランか剣か」という言葉が有名であり、怖いというイメージを持たれる方もいるかもしれません。また一方では、イスラム教は「平和の宗教」だと主張される方もいますので、2つのイメージが混在している状況です。イスラム教を理解するためには「外なる戦い(小ジハード)」と「内なる戦い(大ジハード)」という両面があることを知らなければならないのです。
■ キリスト教とイスラム教
「知識人」の方々の中には、一神教は危険だとか、好戦的だとか、神は横暴だなどと批判される方がいます。また逆に、何の疑いも持たずに、このような古代聖書の戦いの文脈に自国を当てはめ、自分たちは正義の側で敵国は滅ぼされるべきだなどと宣言する政治家や宗教指導者の方もいます。それは中世の十字軍(crusade)や侵略的ジハードなどに見られましたが、今日でも同様です。
しかし、旧約聖書に記述されている外的「戦い」は、新約聖書が教えている霊的な内なる戦いをあらかじめ象徴的に示した「予型(羅: typus)」であるというのが聖書神学的な理解です。使徒パウロは獄中にいながら信徒たちに武力蜂起して自分を救出せよとは言わずに、自分たちの戦いが内なるものであることを強調し、彼自身も日々賛美と感謝と祈りの歩みをしました。
そしてイスラム教もまた、内なる戦い(大ジハード)の方がより困難でより重要であると教えているのです。なぜキリスト教とイスラム教の教えにこのような共通点があるのかといえば、シンプルなことですが、両者ともが旧約聖書だけでなく、新約聖書をも経典として認めているからです。
■ イスラエル(ユダヤ教)の「戦い」
一方のイスラエル(ユダヤ教)は新約聖書を経典として認めておらず、旧約聖書(ヘブライ聖書)のみを生活と信仰の指針としていますので、「戦い」に関して、今日においてもモーセやヨシュアの時代と延長線上の感覚を持っている方々が一定数いるといえます(もちろん、宗教的でない方々も多くいます)。
実際、今回のガザ侵攻に際して、ネタニヤフ首相が「アマレクがユダヤ人にしたことを忘れるな」という旧約聖書の箇所を引用し、大きな物議となっています。それは、旧約聖書には、アマレクの「男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ」(1サムエル15:3)という命令が書かれているからです。
ですから、聖書に少し詳しい方々は、ネタニヤフ首相が子どもや乳飲み子まで殺そうとしていると批判しています。しかし、早計は禁物です。聖書の文脈をよく読んで、アマレクが具体的に何をしたのかを知ると、見えてくる部分があるからです。
あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。(申命記25:17、18)
アマレクは、「うしろの落後者をみな、切り倒した」と書かれています。すなわち、彼らはイスラエルの戦士を相手にしたのではなく、旅路に遅れがちな女・子ども・年寄り・病弱の者を、後ろから殺害したのです。これはまさに、今回ハマスが突如背後から強襲し、無抵抗の女性や赤ちゃんを殺害したことと重なります。
ですから、ネタニヤフ首相は、この惨事を忘れるなという意味で兵を鼓舞したのであり、子どもや乳飲み子まで殲滅するという意図はないと思います。実際に、もしもその気であれば、イスラエルは地上侵攻のリスクを負わずに、空からガザ地区を全て殲滅する力を持っていますが、そのようなことはしませんでした。むしろ、彼は民間人に対して南部に避難するように、あらゆる手段を使って伝えました。
ですから、聖書を解釈するにしても引用するにしても、一部だけを取り上げると大きな誤解を招いてしまいますので、有機的につながっている聖書全巻の文脈を読み解く作業が必要になります。
とはいえ、いかに武力行使に正当な理由があると主張したとしても、旧約聖書的な「戦い」だけではイスラエルに平和が訪れることはないでしょう。それはイスラエルに限らず、全世界の国々にいえることです。
■ おわりに
私たちが周辺諸国を含めた全ての当事者に伝えるべき内容は、自分の内にある利己心や罪、怒り・恨み・復讐心を克服し、赦(ゆる)し・和解・謙遜・寛容・感謝・愛という神様によって本来「人」に与えられている天的な性質を回復する「戦い」、すなわち武力による外なる「戦い」よりも、霊的な内なる「戦い」を、神様が望んでいるということです。
今のように分断と憎しみの連鎖が増幅している世界においては、その道はとても細く険しく不可能にさえ思えます。このような時代にあって、いやこのような時代だからこそ、全人類を無条件に愛し、十字架上で贖(あがな)いを成し遂げたキリストの言葉を、私たちは何度でも思い起こす必要があります。
「汝(なんじ)の敵を愛せよ(Love your Enemies.)」
当事者たちは、家族や友人を失い、深く傷付き、怒りや憎しみにとらわれていて、お互いを赦すことや祈ることができなくなっているかもしれません。ですから、遠く離れた私たちは誰かを批判したり、無関心になったりするのではなく、彼らの代わりに祈る役割を委ねられているのだと思います。それは「とりなしの祈り」と呼ばれます。キリストが十字架の上で私たちのために「とりなしの祈り」をささげてくださったように、私たちもその祈りに連なる者となりましょう。
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