最近は、イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナのことを考えて、夜中に胸がとても痛くなるときがあります。それと同時に、何もできない歯がゆさや、言葉を発すること自体がさらなる分断を生んでしまっているのではないかという迷いもあります。
ですから今は、ただただ皆様の祈りに合わせて「とりなしの祈り」をすることしかできないのですが、この「とりなしの祈り」の本質について、ぜひともシェアさせていただきたい聖書箇所があります。それは、イスラエルの大指導者モーセと、使徒パウロによって語られた衝撃的な告白に関することです。
■ ゼカリヤ書 ―2本のオリーブの木―
最初に、モーセとパウロが聖書の中で、どのような立ち位置の人物であるのかを確認したいと思いますが、その前々段階として、まずは神様の全体的な計画について簡単に話をしたいと思います。
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」・・・私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」(ゼカリヤ4:3、12〜14)
主はゼカリヤに幻の中で、2本のオリーブの木(枝)を見せられました。そして、彼がその意味を尋ねると、主は彼に「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者」だと教えられました。彼らは誰なのでしょうか。ゼカリヤ書は旧約の時代に書かれたものですが、この「ふたりの人」に関しては、新約聖書の黙示録にも記載があります。
■ 黙示録 ―ふたりの証人―
それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。(黙示録11:3〜6)
少し怖いと感じるかもしれませんが、彼らの心は外的な事象とは異なり、同胞への愛に満ちています。そのことは後述しますが、この「2本のオリーブの木」のような者たちは、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っているというのですが、皆さんは聖書の中で、このような人物を思い浮かべることができるでしょうか。
天から火を降らせ、天を閉じて雨を降らせず、また祈りによって雨を降らせたのはエリヤです(1列王記18章)。また、水を血に変え、何度も「あらゆる災害」をもって地を打つ力を持っていたのは、モーセです。有名なストーリーですが、彼はイスラエルの民を奴隷の状態から解放するために、10の災害をエジプトに下しました。
この2人は、「2本のオリーブの木」また「主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者」と表現されています。そして、そのことがはっきりと分かるような出来事がキリストの時代に起こりました。
■ 変貌山
イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。(ルカ9:28〜31)
なんとイエス様が山に登られたとき、モーセとエリヤが右と左に立って、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられるご最期について、つまり十字架の贖(あがな)いについて、一緒に話していたというのです。
もちろんこの2人は、キリストの時代には既にいない旧約の人物ですが、彼らが2本のオリーブの木のように主の両脇に立っていたのを、使徒たちは幻の中で見たというのです。このモーセとエリヤは、ある特別な性質を帯びていました。そのことを理解するために、まずはエリヤについて確認したいと思います。
■ 再び遣わされるエリヤ
見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:5、6)
キリスト教には輪廻転生という概念はありませんが、旧約聖書の最後にエリヤを再び遣わすという預言があります。それはどういう意味であり、誰について語っているのでしょうか。
彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(ルカ1:17)
これはバプテスマのヨハネの誕生に関して、御使いが預言した言葉です。そしてバプテスマのヨハネがエリヤの霊を受け継ぐ者であることは、イエス様によってもこのように証言されています。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。・・・あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。(マタイ11:12、14)
■ モーセとパウロ
このように見ますと、旧約聖書の時代から新約(キリスト)の時代、そして黙示録に描かれている終末の時代に至るまで、「2本のオリーブの木」また「主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者」たちが、神様の計画の中で主の両脇に備えられていることが分かります。
それでは、新約の時代にエリヤの霊を受け継いだものが、バプテスマのヨハネだとしたら、モーセの霊(スピリット)を受け継いだ者とは誰のことでしょうか。結論からいえば、それが使徒パウロだということができます(輪廻転生という意味ではありません)。
実は2人には多くの共通点があります。モーセは神様から選ばれ(出3:2)、顔と顔とを合わせて直接啓示を与えられて旧約聖書の根幹部分を著しました(出33:11)。そして同様に使徒パウロも主によって直接選ばれ(使徒9:15)、イエス・キリストの啓示によって多くの新約聖書を著しました(ガラテヤ1:12)。
■ モーセの「願い」
それだけではありません。イスラエルの民が偶像崇拝という大きな罪を犯したとき、モーセは同胞である彼らのために、以下のような「とりなしの祈り」をしました。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト記32:32)
ここで言っている「あなたの書物」とは何でしょうか。それは「いのちの書」と呼ばれるものです。では「いのちの書」から名前を消すとは何を意味しているでしょうか。それは永遠の滅びを意味します。このように書かれています。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20:15)
モーセは罪を犯した民の罪を贖うために、自らが永遠の滅びに至ることをさえ、願ったのです。なんという驚くべき態度でしょうか。これは同胞のイスラエルの民に対する愛とあわれみから生じた言葉ですが、果たしてこのような言葉(スピリット)を人は自ら語り得るでしょうか。
■ 使徒パウロの「願い」
しかし、驚くべきことに使徒パウロもモーセと同様の告白をしています。
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:1〜3)
彼もまた、同胞が救われるために、自身が信じるキリストから引き離されて、のろわれた者となり、自らが永遠の滅びに至ることをさえ願いたいと告白しているのです。なんという熱い情熱でしょう。このような言葉は絶対に普通の人間の口からは出てこない言霊です。
彼らは、「いのちの書」に名の記されることの意味を知らなかったのでしょうか。それとも神様と共にいる喜び、キリストの救いの恵みを知らずに、このようなことを言ったのでしょうか。
確かに、ある人たちは深く考えずに「自分は地獄行きだ」などと軽々しく言います。しかし、モーセとパウロは誰よりも、いのちの書に名の記されることの大切さ、神様と共にいる喜び、救いの恵みを知っており、同時に永遠の滅び、火の池に投げ込まれることの恐ろしさを知っていました。そして、知った上でこのような告白をしたのです。
それは、彼らが神の霊に満たされ、人々に対する父なる神の深い心痛を知っていたからであり、主のそばで顔と顔とを合わせ、直接主から十字架の意味を教えられていたからです。彼らは主の愛に圧倒され、同胞の罪の贖いと魂の救いのために、自らが犠牲となることを願うほどに、深い「とりなしの祈り」をしたのです。
■ 進撃の巨人
さて、話は少し変わりますが、「進撃の巨人」というアニメが最終話を迎えました。当初、漫画の主人公たちは、壁の向こう側に悪い悪魔のような人々(敵)がいると信じていて、激しく争いますが、物語が進むにつれて、壁の向こう側にいる人々にも、それぞれ人生があり、愛する家族や仲間、当たり前の日常、そして独自の歴史観があることが分かってきます。この話は、作者の諫山創さんが何をどこまで意識していたかは分かりませんが、現在のイスラエルとパレスチナの争いを象徴しているようです。
争いや復讐の連鎖により、誰も問題を解決できない状況の中で、主人公のエレンは自分自身と多くの人を犠牲にしてでも、「仲間を生かす」ということを選択します。その決断に対して、漫画版では、主人公の友人であるアルミンが「ありがとう、僕たちのために・・・この過ちは絶対に無駄にしないと誓う」と言いましたが、アニメ版では、このシーンが改訂されていたことが話題になりました。
これは作者である諫山創さんが、アニメ版のために加筆したものであるとのことです。そのアニメ版では、アルミンは友人であるエレンに対して、自分も一緒に地獄に行き、罪を受けて苦しむことを申し出ます。このシーンを見て、胸が熱くなったファンの方も多かったと思います。
■ おわりに
アニメと聖書は全く位相の異なるものではありますが、このアニメが書かれる何千年も前に、同胞の魂の贖いと救いのために、自身の魂が火の池に投げ込まれることをさえ願ったのが、イスラエルの大指導者モーセと、キリスト教の使徒パウロです。私たちは、この「2本のオリーブの木」のような人物たちの「とりなしの祈り」にあずかり、今恵みを与えられています。私は、これらの箇所を読んだときに、非常に驚愕し、涙が止まりませんでした。
しかし、だからといって彼らが私たちの信仰の対象となるわけではありません。彼らをして、このような「願い」をさせるに至らせたのは、主ご自身なのです。そして主は、そのように申し出た彼らの「願い」を退けられ、ご自身が全人類を贖うために、父なる神から捨てられ、のろわれた者となり、十字架の苦しみを全うしてくださいました。そして父は、胸の張り裂けるような痛みに耐えて、独り子であるキリストを死に渡されました。それは、神が私たち一人一人を愛してくださっているからです。
イスラエルとパレスチナの紛争を思うときに、善悪を論じたり、批判し合ったり、歴史的な経緯を説明したりしても、いっこうに何も解決せず、むしろ、さらに傷つけ合ってしまうというような状況だと思います。このような中で、人の心を打つものがあるとすれば、自己の命を懸けて両者の間に立ち、その憎しみや悲しみを一身に受けて、なお人々を愛するような行為でしょう。
そして、その犠牲の血はすでに十字架の上で流され、彼は人々が「互いに愛し合う」ことを望まれました。私たちはキリストのような愛を実践することはできません。しかし、主の思いを受け止めて「とりなしの祈り」に参与させていただくことはできるのだと思います。
聖書には「喜べ」という言葉もありますが、使徒パウロのように隣人のことを思いながら、大きな悲しみを抱き、心に絶えない痛みを持ち「とりなしの祈り」をする人々、モーセのように父なる神の心痛を自分のものとする人々、「2本のオリーブの木」のような使命を帯びている方々が、いつの時代にもいるのです。
私たちも、そのような方々の祈りの輪に加われればと思います。そして、たとえ小さなことであったとしても、何か和平につながることがあるのであれば、共に行動できればと思います。
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