しかし王は言った、「ゼルヤの子たちよ、あなたがたと、なんのかかわりがあるのか。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」。ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」。 (2サムエル16:10~12)
ダビデのおいであるアビシャイは、ダビデを呪うシメイに反撃すべきだと伝えますが、ダビデは神様がそれを導いている可能性があると回答します。さらに、神様は自分の悩みを顧みて、その悪行に代えて、自分に善を報いてくださるかもしれないと語ります。
神様は、人間に自由意志を与えられました。しかし、人が悪魔にとらえられ、破壊的な判断をすることは、神様が望まれることでは決してありません。神様は、私たちが悪に影響されて物事を選択することをご計画されていないからです(参照・1コリント13:5)。愛は自分の利益を求めません(参照・同上)。
しかし残念なことに、キリスト教会で霊的なリーダーと呼ばれる人たちが、その権力を誤って利用し、自由意志を尊重せず、人々を操作することを選択し、本来対峙すべき本質的な問題に向き合わないでいることが多く見受けられます。自分を含めた罪の言動にこそ対峙することが必要なのです(参照・ガラテヤ6:1)。
神様は全ての物事を共に働かせて、益としてくださいます(参照・ローマ8:28)。ひどいことをされても、反撃したり、仕返ししたりする必要がないのは、この恵みがあるからです。
たとえ、信頼していた人に裏切られるような状況に直面したとしても、それらをも共に働かせて益としてくださる神の恵みを信じるならば、相手を憎むことで莫大なエネルギーを消耗することがないばかりか、敵を愛し、その良いところを見ることができ(参照・マタイ6:22)、安らぐことさえできるのです(参照・マタイ5:43~48、マタイ11:28~30)。
感情的には難しさがあっても、愛の選択をするときに、私たちは良い結果を体験することができます(参照・マタイ26:39)。
あなたを批判し、ひどいことをする人がいるのであれば、その人のために祈りましょう。あなたの心は満ちあふれるほど豊かになり、神様はその悪行をも全て、あなたのために良きものにしてくださるのです。
GOD BLESS YOU!
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