彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。・・・そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。(使徒4:13~21)
日々の暮らしの中で、困難、試練はさまざまにやって来ます。その度に一喜一憂するのではなく、クリスチャンとして魂の目を開いて、何があってもいつまでも変わることのない神の恵みに目を留めて、信仰を働かせる生き方を自分のものとしましょう。
4つの福音書を中心にして聖書は、神の御子であるお方が人となってこの世に現れ、神の愛を現し、自ら人々の罪を背負い十字架にかかり、罪の贖(あがな)いを成し遂げてくださったという福音を語っています。
そして、イエスのご生涯を思うときに、癒やしは特別に価値あるものとして描かれていることを思い起こしたいのです。癒やしは、イエスの存在から切り離すことのできない尊い神の恵みの御業の現れなのです。
今日の聖書箇所は、3章の冒頭部分から長く続くエピソードの一部分です。ペテロとヨハネが神殿に上って祈ろうとしている最中、「美しの門」の傍らで足の不自由な物乞いに声をかけられました。
彼らが男に目を留めて「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取るやいなや、その男が立ち上がって歩き出し、神を賛美して神殿に入っていったのです!
この出来事で大騒ぎになったので、指導者たちは暴動が起こるのではないかと不安になり、騒ぎを収めようとして調べると、ペテロとヨハネが原因だと分かり、彼らを捕まえて取り調べをする場面が、今日の箇所です。
3つの信仰のポイントを確認したいと思います。
1. 無学で平凡な男たちによる癒やしの御業!
癒やしの奇跡が起きた出所は分からないが、調べれば調べるほど、ペテロとヨハネが無学、無教養の普通の田舎者で、彼らの人生で変わった出来事といえば、十字架で死んだナザレのイエスと一緒にいた弟子だったということが分かってきた、と聖書は語っています。
あなたは、イエスの癒やしをどこまで真剣に信じますか。ここで取り調べをした人々も迫害者たちも、癒やしの業が起こった事実は認めていることを忘れてはなりません。信仰者である私たちは少なくとも、そこに起こっている事実を認めようではありませんか!
癒やしが起こるかどうかを論じることをやめて、理屈では説明できない御業を起こしてくださる神の恵みに感謝しましょう!
2. 癒やしの事実の受け止め方が重要!
指導者たちは、癒やしは否定できないが、これ以上イエスの名によって語らないように、癒やしたりしないようにと彼らを戒めました。けれど、ペテロとヨハネは神に従い、自分の体験を語り続けると宣言したのです!
同じ癒やしの事実がありながら、どう信仰を働かせるかは全く違っていたのです。あなたはどちらを願いますか。癒やしは聖書の中だけだと思う残念なクリスチャンになってしまわないように。むしろ私たちは、聖書に記されている約束や奇跡の事実をそのまま受け継ぎ、主の御名を告白すれば癒やされることを実体験しましょう。
3. 主の証し人としてぶれることなく生きる!
私たちは、聖書をそのまま信じています。イエス・キリストの御名で祈るとき、イエスの力によって今も、病める人が癒やされることを体験しましょう。そして、主の御業、主の福音の恵みの証し人として、ぶれず迷わず生きていきましょう。
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