今週、7日はイエス様が十字架にかけられた受難日で、9日は復活祭(イースター)です。本コラムはこれに合わせて、本日5日は受難のイエス様を、次週12日は復活されたイエス様をお伝えしたいと思います。
なお、「ルカ福音書を読む」の連載はそれで終了として、19日からは「ヨハネ福音書を読む」の連載を開始させていただきます。
さて、今回は23章26~43節を読みます。
キレネ人シモンが十字架を背負う
26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
ピラトに死刑の宣告を受けたイエス様は、十字架にかけられるために、「されこうべ」(頭蓋骨、ヘブライ語で「ゴルゴダ」、「カルバリ」はラテン語由来の言葉)と呼ばれている場所に向かわされました。共観福音書はいずれも、キレネ(現在のリビアにあった古代ギリシャの都市)出身のシモンが、イエス様がかけられる十字架を背負って運ばされたとしています。
しかし、ヨハネ福音書19章17節によりますと、イエス様は自ら十字架を背負ってゴルゴダに向かったとされています。このため、最初はイエス様が十字架を背負っていたけれども、途中でキレネ人シモンがそれを引き継いだという構成がなされるようになりました。聖書の物語を扱った紙芝居でも、そのような場面が描かれているものがあります。
上掲のティツィアーノによる「カルバリに向かうキリスト」も、そういった観点で描かれていると思います。このキレネ人シモンは、マルコ福音書15章21節によると、「アレクサンドルとルフォスの父」とされています。そのためでしょうか。シモンは年長の人として描かれています。
しかし、私はそのようには考えていません。シモンはこの時、まだ若かったと思います。イエス様の十字架を背負ったシモンは、その後の十字架にかけられたイエス様、そしてよみがえられたイエス様を見ていたことでしょう。第1コリント書5章6節によりますと、イエス様はよみがえって500人以上の兄弟に現れたとされていますから、キレネ人シモンにも現れたのかもしれません。
使徒言行録のペンテコステの出来事を伝える記事によりますと、その日にエルサレムにいた人たちの中には、「キレネに接するリビア地方に住む者」(2章10節)もいたのです。シモンもその中にいたかもしれません。推察が強い書き方になってしまいましたが、キレネ人シモンはその後、キリスト教徒となったのだと私は考えています。
そしてその信仰が、息子のアレクサンドルとルフォスに伝えられたのです。彼らは、父親がイエス様の十字架を代わりに背負ったことを、繰り返し聞かされたことでしょう。この兄弟が、マルコ福音書執筆の時代(紀元60年代とされます)までに、教会の指導者であったのです(ローマ書16章13節にルフォスの名があります)。それ故、マルコは「アレクサンドルとルフォスの父でシモンというキレネ人」という伝え方をしたのだと私は考えています。
嘆き悲しむ婦人たち
27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。30 そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
ここでイエス様に従った婦人たちとは、8章2~3節で伝えられているイエス様と行動を共にしていた女性たち(18回参照)のことではなく、エルサレムの民衆である婦人たちのことです。婦人たちは嘆き悲しんでイエス様に従ったと伝えられており、イエス様を十字架にかけてあざけったエルサレムの男性たちとは対照的に伝えられています。
しかし、イエス様はこの婦人たちに「わたしのために泣くな」と言われました。イエス様の苦しみのためでなく、「自分と自分の子供たちのために泣け」と言われたのです。それは、婦人やその子どもたちの罪についての指摘でした。「生の木」である、つまり罪のないイエス様が十字架にかけられるとしたら、「枯れた木」である、つまり罪のあるあなたがたや子どもたちはどうなるのかということです。
ここでイエス様は、彼女たちに回心を呼びかけているのです。これは、生前のイエス様の最後の宣教といってよいでしょう。そして、後述する十字架にかけられた犯罪人の一人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたことにおいて、回心に対する救いの成就が語られているのです。
2人の犯罪人
32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
イエス様が十字架にかけられたとき、2人の犯罪人がイエス様の両脇でやはり十字架にかけられました。このことは、4つの福音書全てで伝えられていますが、イエス様と2人の犯罪人のやり取りを詳しく伝えているのはルカ福音書のみで、他の3つの福音書は簡略に伝えているだけです。
十字架にかけられたイエス様は、議員たちや兵士たちから、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱されます。そういった言葉に誘発されたのでしょうか、イエス様の脇で十字架にかけられていた一人の犯罪人が、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言い出したのです。
しかし、反対側で十字架にかけられていたもう一人の犯罪人は、「我々は、自分のやったこと(マタイ福音書とマルコ福音書によるならば強盗)の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言って、イエス様をののしった犯罪人をたしなめ、さらにはイエス様に願い事をしたのです。
つまり、一人の犯罪人は、議員たちや兵士たちと同じようにイエス様をメシアとは認めず、メシアとされていたことを侮辱したのですが、もう一人の犯罪人は、イエス様がメシアであることを信じたということです。そしてそのことによって、この犯罪人が悔い改めたことが示されていると思います。
イエス様は、「わたしを思い出してください」と願った犯罪人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この言葉は、悔い改めた犯罪人に対する救いの言葉であり、前述したように、イエス様に従ったエルサレムの婦人たちへの回心の呼びかけに対する救いの成就の言葉なのです。
この犯罪人は、まもなくこの世における命が絶たれようとしています。しかし、イエス様と共に「楽園」での「やり直し」が約束されているのです。ルカ福音書は、そのことを強く伝えています。(続く)
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