私たちは、国の政府に生活をお任せして生きています。防犯は警察、住環境は市町村、国の安全は防衛組織にお任せして、という具合です。
聖書には、私たちの人生をお任せすべきお方は、天地万物の創造主だとあります。
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え(聖別し)身(欲望)を慎みなさい」(1ペテロ4:7)と、聖書は終わりの時代を生きる私たちに向かって、祈りの緊急事態宣言を訴えています。
1. 非難と御霊
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(1ペテロ4:14)
目に見えてキリストの名のために非難を受けると、私たちは恐れ戸惑います。しかし神は「あなたがたは幸いです」と語り、栄光の神の御霊があなたがたの上にとどまってくださるからだと教えます。万軍の主から送られた栄光の御霊が、私たちの霊的戦いにおける味方なのだと励ましているのです。
聖霊は、霊的な戦いにおける防犯的賜物であり、信仰生活における生活保護の賜物、御国の命を守る国防的賜物といえます。
キリスト者は、主キリストの敵である悪魔の攻撃として人々からの非難を受けることもありますが、防犯と国防の御霊がキリスト者に留まり、勝利に導いてくださるので、非難さえも御霊にあって幸いなのです。
2. 苦しみとキリスト
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。(1ペテロ4:15、16)
15節を解くなら「キリスト者は、人殺し、盗人、犯罪人、いらぬ世話を焼く者となって、罪から来る苦しみを受けないようにしなければなりません。自身の罪の刈り取りで苦しんでも、神からの助けが無い状態で悪魔の攻撃を受けて、災難と争い、病、貧しさがくるだけです」となります。
「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。・・・天ではあなたがたの報いは大きいから」(マタイ5:11、12)
16節は「しかし、キリスト者として非難され、苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。逆に、主キリストの名の故に苦しみを受けることで天の報いが大きいから、神をあがめなさい」となります。
キリストが苦しみを受けられたのと同じ心構えで武装しなさいとあるように、聖書は私たちに霊的な戦いがあることを教えています(1ペテロ4:1)。
キリストと同じ心構えで武装しなさいとは「キリストは神の御心に従い、御霊と御使いの助けを得つつサタンの試みを受け、人々からの非難とねたみによる十字架の苦しみを受け、人々の罪の身代わりとして病と死の呪いを受けました。このキリストの苦しみから学び、キリストと同じ心構えで霊的武装をしなさい」ということです。
3. 裁きと創造者
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。(1ペテロ4:17〜19)
17節を、ギリシャ語原典を加味して解くと「キリスト者に非難と苦しみがあっても、栄光の御霊が与えられることで幸いと考える理由は、裁きが神の家から始まる時が来ているからです。裁きがキリスト者から始まるのなら、救いの福音に従わない人たちの終わりはどのようでしょう」となります。
18節は「キリストを信じる義人がかろうじて救われるのだとしたら、罪のために死んだ神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」ということです。
19節は「ですから、苦しみに耐えたキリストと同じ心構えで、御心に従って苦しみに遭っている人々は、正しい行いをして、正しく扱われる創造者に自分の魂をお任せしなさい」となります。
今は万物の終わりが近づき、神の最後の審判が迫っています。裁きがキリスト者から始まり、信仰の義人がギリギリで救われるのですから、福音を軽んじる者や罪の中に留まる者の終わりは最悪です。
ですから、苦難を受け入れたキリストと同じ心構えで、御心に従って苦しみに遭っても、私たちは正しく行い、真実な創造者キリストに魂をお任せいたしましょう。
まとめ
キリスト者たちは、人々から非難されて苦しむことがありますが、だからこそ神は栄光の御霊を私たちに与え、御霊の賜物によって武装させて試練に打ち勝つ力を与えるので、幸いです。
ただし、自分の肉的な罪により苦しみに遭うことでは、神から何の恵みも受けられませんので、肉的であることを悔い改めて、霊的にキリスト者として生き、苦しみを受けることで、神を褒めたたえる者へと変えられることです。
神の裁きは神の家から始まり、義人がかろうじて救われるのだから、神の福音を軽んじ、罪に生きる人の終わりはどうなるのか考えてください。
ですから、私たちが信仰生活で苦しみに遭っているのなら、正しい行いを続けて、正しく裁かれる創造者に自分の魂をお委ねしましょう。
創造主キリストが、私たちの全人生の全責任を負ってくださいます。
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