不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(29)
※ 前回「おこぼれは大事だ(その1)」から続く。
邪念を抱くのが人間だ
イエスがわれわれに解き明かしているのは、人間の内側にある邪念が人間を汚す、つまりわれわれは安易に言い訳をできないということである。イエスの実際に行われた奇跡や癒やしなどは、現実的、物質的な文字通りのものである。ところがイエスの言葉、つまり教えとなると、そうはならない。言葉そのものに救いがある場合もあろうが、一方でイエスの言葉というのは、人間の存在(つまり善より悪が優るという現実のことであるが)に対する問いかけでもある。砂漠(当時は悪霊のいる所と考えられていたようである)に行ってきたから、異邦人と会ったから人は汚れるのかと。そういう人間の思い込みに対する異議申し立てなのだ。汚れは人間の内側から湧きいで人間を汚すのではないのかと。
ただし、ここでわれわれが気に留めるべきことがある。それは、われわれの邪念が生み出す汚れというのは、必ずしも自分だけを傷つけるのではないと。いやむしろ、われわれの邪念が生み出すものは、自分自身ではなく、家族や他者を汚しているのではないかということについてである。これは、われわれの誰しもが心のどこかで自覚していることであるが、表だってはなかなか認めない事柄でもある。私の邪念が生み出したものによって、私ではない誰かがひどい目に遭っているのかもしれない。イエスはたくさんの邪念を暴き出しているが(マルコ7章21、22節)、例えば妬み、傲慢、愚かさの結果をわれわれは知っているのではいか。ただ素知らぬ顔をしているにすぎない。幼い少女が汚れを帯びたとして、それは彼女の邪念が引き起こしたものだと誰が断定できるだろうか。むしろ、家族や周りの人間が持っている邪念によってもたらされた結果ではないかと想像もできよう。
これは想像でしかないが、フェニキアの女性には身に覚えがあったのではないか。もし、母親として思い当たることがあったとしたらどうだろうか。この子の苦しみは、彼女由来のものであると思ってしまった瞬間、心が真っ黒になるのではないだろうか。そう、これもわれわれには身に覚えのあることだ。
われわれは案外、自分自身が罪ある者であり、内側にある「悪」を知っている。邪念もしかりであり。そして、それらが自分自身の不品行によって生まれたものであることも知っている。そのような「悪」なり邪念のもたらす結果について身に覚えはあるのだ。自分の身近なところで悪しきことが起こった場合、もしかしたらこれは「私の中にある悪の因果」かもしれぬと密かに考えたりもする。当然のことである。物事の真理などわれわれには分からないものなのだから。
極端な言い方をすれば、「あなたの因果によってあなたの先祖が死後の世界でもがき苦しんでいる」と言われても、何となく同意してしまうものだ。私の中にある「邪」なるものが私を超えて誰かを巻き込んでいるかもしれない、何と恐ろしいことだろうか。そんなことがあるのか、ないのか、それは筆者には分からない。しかし少なくとも、そのように考えられる人というのは、まあ、まともな人だということである。
もちろん、マルコはそのような意図をもってイエスが汚れの本質を語ったとは言ってない。大事なことは、汚れなり悪なり邪念なり、それは人間の内側から出ているものであり、この事実を忘れてはならないということである。そして、フェニキアの女性とその娘の話をこれから語るわけであるが、あれやこれやの事情があるのか、ないのか、そんなことはいろいろと想像はできるとして、大事なことは、この苦しみの中にいる親子が存在していること、その具体的な命に主イエスが向き合っているという事実なのだ。
われわれには用意があるのか
母親はイエスを知ってしまった。どういう経緯なのかは分からない。しかし、悪霊を追い出すイエスを、つまり、人間の中にある「悪や罪や邪念」と向き合える人を知ってしまったのである。だから、イエスの元へ彼女はやって来るのである。イエスを知っているのに求めないというのはあり得ない。もし、われわれがイエスの元へ行く気持ちが薄くなっているとしたら、その時、われわれはイエスのことをあまり知っていないのだ。知識として知っていても、会いに行きたくないというのであれば、結局は知っていない。なぜなら、イエス・キリストは生きておられる方、あなたに向き合う方であるからだ。教会でお会いするのが良いに決まっている。それが適わぬなら、キリスト教の何かの集会でも良い。それすらも無理であるなら、聖像聖画を前にして祈るしかない。それが嫌だというなら、一生懸命に聖書を読んで祈るしかない。どんどんハードルが高くなるだけだ。
別にくよくよするような話ではない。イエスを十分に知っていないなら、それは時が悪いだけだ。つまり、まだイエスの時があなたには来ていないだけである。その時は来るのだとイエスが言われたのであるから、気に病む必要もないことだ。大切なのは、イエスのことを知ったときに、どうするのかということだ。躊躇(ちゅうちょ)なくイエスの元へ行く準備がなされているかどうかだ。それはイエスの元へ行く理由が問われているのではない。イエスの元に行くのか、行かないのか、ただそれだけがわれわれの人生に問われているのだ。
大抵、相手は都合が悪いものだ
もちろん、母親はイエスに悪霊を追い出してくれるように懇願する。しかし、イエスは素っ気ない。迷惑そうだ。「まず子供たちに満腹するまで食べさせよう。子供たちのパンを取って子犬に投げ与えるのはよくないことだ」(マルコ7:27)と、このようなことを平気で言う。あー、何ということであろうか。子どもたちとはユダヤの人々。特にこの場合はガリラヤの民ということであろう。パンを与えるとは、具体的に言えば悪霊を追い出すこと、言葉を変えれば、憐(あわ)れみを与えるということである。
ただ単純に、イエスの恵みはユダヤ人に優先されるべきと考えることもできる。もう少し違う視点を持つとしたら、この日のイエスはひどく疲れ切っていたというべきか。そりゃそうだろう。日々、人間の中にうごめく邪悪と戦っているのだ。日々、邪悪の結果として生まれ続ける汚れや悪霊と戦っているのだ。疲れているからガリラヤを去ってわざわざティルスに来たのだ。それでもなお、「私に何とかしろと言うのか」と。まあ、そう言うつもりはないにしても、ちょっと突っかかってしまったのであろう。
しかし実は、このやりとりは重要なのだ。私の憐れみはまずはユダヤの民にとイエスが言ったとして、では母親はどうしたのか。「はい、分かりました。失礼します」ということになるのか。その程度のお願いなのか。それだけのイエスとの向き合いなのか。そうではないのだ。相手の都合などどうでもよいのだ。助けを求めるときというのは、そういうものではないか。われわれは相手の都合に合わせて助けを求めるのか。「すいません、もしご都合がよろしければ」というのは、少なくとも神に対して申し上げるべき言葉ではないのだ。イエスがどうであれ、私は助けを求めているという意志を伝えないとどうにもならないのだ。
おこぼれこそが大事なのだ
「主よ、ごもっともです。でも、食卓の下にいる子犬も子供たちのパン屑(くず)を食べます」と母親ははっきりとイエスに言ったのだ。素晴らしいスピリチュアルケアである。神に対する「でも、しかし」である。異邦人であることはイエスにとって憐れみの対象ではなかったというのは、神学的にはどうにでも言えることだ。「でも、しかし」である。異邦人でも、である。犬がパンを頂く理由はない。「でも、しかし」である。こぼれ落ちるパン屑くらいは食べるのだ。もし、イエスの憐れみがほんの少しだけでもこの親子のためにこぼれ落ちるなら、喜んで頂くと母親はそう言ったのだ。あなたが疲れているのなら全力でなくてもよいが、それでもほんの少しだけでも憐れみを下さいと願うのである。
わざわざ憐れみと言わなくてもよい。救いと言い換えてかまわない。救われる理由はないけれども、「しかし、救ってくれ」、これが神に対するわれわれの本音ではないのか。救ってもらえるだけの理由を持ち得ないけれども、ほんの少しだけでも「何とかならないか」と、われわれの心の祈りはそういうものではないか。その本音をどれだけイエスに伝えられるのかどうかなのだ。どこまでねちっこくお願いできるか、どこまで引き下がることなく粘れるか、それがわれわれの神への向き合い方だ。フェニキアの女性はそれができたのだ。なぜだろうか。それはこの娘のために、自分自身が救われなければならないからだ。もしかしたら、いや、自分たちの邪念によって悪霊に苦しむ娘を助けてもらうことによって、母親も救われなければならないのだ。幼い病人がいれば、その家族もまた癒やされなければならないのだ。
イエスは言う。「それほどに言うのか。よろしい、帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出ていった」(終わり)
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