わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)
イエス・キリストは、友である私のためにご自身の命を捨てて、救いを与えてくださいました。これよりも大きな愛は誰も持っていません。
聖書に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」(1ヨハネ4:16)とあります。神の愛のうちにいる人は、神のうちにいます。聖霊なる神もその人のうちにおられます。
神は霊ですから、目に見えないと聖書にあります。私たちは、目に見える人からの栄誉や評価を求める性質があり、目に見えない神からの栄誉や評価は人々に知られないのであまり求めません。ですから、目に見えない天の父なる神が地上に送られたイエス・キリストを救い主だと信じることが難しいのです。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
目には見えませんが実在する神を信じ、この神に希望を持っている人は、失望に終わることがありません。なぜなら、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(1ヨハネ4:8)
人には愛がないので、見える態度や行いが愛であると思い込み、形としての愛を人に要求します。しかし、真実な愛は神から出ており、私のうちにあります。神の無償で無条件の愛は、人を変える力を持っています。
聖書は、目に見えない心から出た態度や行いに真実の愛があることを教え、互いに愛し合うことを勧めます。目には見えない神の愛を信じることは難しいのですが、まずはイエス・キリストが救い主だと信じることから始まります。聖書に書かれている神の戒めや教えを守ることで神の愛を実践し、私たちは生かされます。そして互いに愛し合うことで、私たちは神を知り、愛のある人となり、永遠の命を得る者とされます。
神の奥義としての愛は、「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(ヨハネ5:21)と無償の愛を語ります。聖霊によって心に注がれている神の愛は、寛容、親切で人をねたまず、自慢せず、高慢にならずに、礼儀に反することをせず、利益を求めず人の悪を思わず、怒らず、不正を喜ばずに真理を喜び、すべてが益になると信じて神に期待します。
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」(1ヨハネ4:7)
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(2コリント3:18)
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」(1コリント13:4〜8)
主にある方々に、主の祝福がたくさんありますように。
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