続いて一行は、昼食をとるためにパオの食堂に着いた。そこには定住ホテルのパオもたくさん建ち並び、食堂に入る前に迎えられた店員たちから当地のあいさつの儀式として酒を手に取り、指で天地人に感謝するとのことで、さらに口にするように言われ、少し度の濃いアルコールを飲みほした。それはあいさつだけでなく、室内で羊肉を頂くために普段は食べていないことから、お腹をこわしてはいけないという配慮を込めた指示でもあった。
天地人について、景教三威蒙度讃に天地人(三才)の表記があったことを思い、景教儀式が受け継がれているのかなと感じた。骨付きの羊肉や出された食事は非常にうまかっただけでなく、異文化初体験で、日本人が戸惑うのも無理のない文化と風土の違った光景であった。
歓迎の儀式
食堂の建物
食事、次々と出される
ホテルの建物
博物館の前景
信徒たちのシリア語十字墓石ほか
一行は百霊廟に到着。その先約50キロ行くとオロンスム遺跡址があったが、百霊廟からの往復時間その他を含めると、ホテルに帰ることができないとの理由から行くことを断念した。しかし、今はそこに何もないとのことであった。
私たちが百霊廟に足を踏み入れた初回のツアー時には、木造の博物館であったのが、2度目に行ったときには別の地に石造の立派な博物館が建っていた。前回の館長は故人となり、彼の親切さのようなものを感じられない商業的なものとなり、ゆっくり見学することもできなかったのが残念であった。
もともとシリア語が刻まれた多くの十字墓石は、これより先のオロンスムという大きな墓地で1929年に発見され、やがて方々に保管され、盗難にも遭ったと聞いた。私たちも一基でいいから購入できればと思い、交渉したいところであったが無理とのこと。また、1930年代の報告によると、オルドスに住むウーシン族のエルクートたちが洗礼式や聖餐式、葬儀などを行っていたという(『オロンスム』62ページ)。
私たちは景教遺跡巡りとともに、地域にあるキリスト教会にも訪問した。出会う人々はすべて良い方ばかりで、指導者らに注がれた神の愛による救いの証しを聞き、信仰の友同士で互いに祈り合うことができたのも感謝であった。
全地の神は素晴らしい。どこにいてもご臨在があり、守り導いてくださるお方、これからもそうである。私たちは主を賛美した。
内モンゴルの教会堂
西安の教会堂
教堂案内板
さて一行は、有意義で大きな感動に包まれて飛行場に着いた。そんな中、チェックインして飛行機を待っていたときにハプニングが起きた。一人の者がパスポートは持っていたものの、手荷物がないと叫んだ。周辺を探したものの見つからない。バスに忘れてきたのか。いろいろ探していたときに思い起こし、荷物の選別機の中を見たいと係員に伝えたら、コンベアが途中で止まったままで、荷物が置かれていたことを発見。一同は安堵(あんど)した。旅は、突然何が起きるか分からないからしっかりと監視し注視していること、そんなことを学び、感謝の祈りをささげた。
今回も中国景教ツアーを企画し、実施してくださったイーグレープの穂森宏之社長に重ねて感謝を伝えた。
解説3:十字墓石群が発見されたオロンスム寺院と保管場所の百霊廟
1929年には、オロンスム(多くの寺院の意味。諸宗教の施設、墓地もあった)で、漢文碑の「王傅徳風堂碑記」(1347年11月作)をヘディンの調査団員の一人、中国考古学者の黄文弼が発見。1933年には米国のモンゴル研究者のO・ラティモアによって多数の十字墓石が発見され、景教徒のものと判明したものの、漢文が分からず不十分の発見であったが、この時よりオロンスムが有名になった。1935年には、江上波夫がオロンスム遺跡を調査し、碑文の「馬札罕(マジャカン)」なる人物こそ、景教徒オングト(汪古)部族の子孫であることを発見、その後の調査で多くのことが知られるようになった。碑記は、元の皇室とオングト王家が親しい関係であったと伝える。そこでの調査記録などをまとめて出版したのが『モンゴル帝国とキリスト教』で、その著の図版24を転載し、筆者が赤で記したのが王馬札罕である。本書11、12ページのマルコ・ポーロ『東方見聞録』、明代の『元史』にも出るという。
王傅徳風堂碑記
拡大図
※ 写真は川口が撮影。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
盖山林著『陰山汪古』(中国古代北方民族史叢書、内蒙古人民出版社、1991年)
江上波夫著『モンゴル帝国とキリスト教』(サンパウロ、2000年)
『オロンスム モンゴル帝国とキリスト教遺跡』(横浜ユーラシア文化館編集発行、2003年)
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